言いたい、言いたくなる気持ちの「それ」 したがき
少し見えたことがある。気が付いた事ね。
他人に対して、言いたい事がある人。
他人の事に対して、言いたい事、言ってあげたい事、ある人。
それって、ただの自己満足。
それはエゴ。強要、押し付けの価値観なのだ。
とはいっても、それ自体が悪いとは思っていない。
それも人間だから。
でも、人間だから考えろと思う。
考えて、適切な、考えて、自分に合う、考えて、自分が生きていく上で大切な事や変化、成長をしなければいけない。それが人間であり、生きるという事でもあると僕は思う。それが経験や過程の上で大人になるという事なのかなと僕は毎日考えている。
この経験をさせてくれている周りの人や環境に、感謝もしている。
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善かれと思って、だろうが、何と言おうが、問題はそこではない。
論点はそこではない。
それでは視点が主観に偏り過ぎているのかもしれない。
その視点があると人間は人間らしく成長できると僕は思う。
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僕が、Aという知り合いから、頼まれ事をする。
頼まれた事の内容は何でもいい。出来れば大事な事で考えて欲しい。
ここから僕と人とでは少し行動が違うのだと思っている。
僕は、頼まれた事や、相談、依頼に対して、基本的に僕は、やり過ぎている(やり過ぎてしまう)のだと思う。
見返りを求めていると言われると気に入らない。
必要とされたいのではなく、自分の居場所、自分が安心できる存在を大事にしたいから、それを探しているだけ。
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自分が正しい、自分は正しい事を知っている、間違っている相手に言いたい、知らない、解っていない貴方に対して、あなたの為に言ってあげる。
過去には僕も、同じように考えている時があった。
僕は今、特にそこに気を付けて、直そうとしている。
冷静に、俯瞰して自分たちを見られるように、必死。
だから自然と少なくなっている。それだけ。
ちなみに、
「間違っているから教えてあげているの!」
と言う癖、傾向は、うちの親だった。
僕の場合は少し違う。
Aの要望に、要望(必要)以上の結果を出して、相手に喜んでもらいたい。
僕は常にこの心理が強く動いている。
いわゆる、愛着障害の問題点がこういう所にある。
基本的に、僕はこの考え方が、全てに当てはまる。
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僕は、僕がした事に対して、反応が欲しいと思っている。
僕は、自分が誰かにした事に対して、答えや結果に期待する。
評価が欲しい、反応して欲しいと、大なり小なり考えている。
人や社会の中で、自分が存在する意味を考えている。
これでも、何か僕にしか出来ない役割に、努めているのだと思う。
だからこれは僕が、自分に対して思い、自分の事で考え、気が付いた事。
相手からの好意的な反応を期待するのは間違いに近い。
危ない考えだ。
相手がそれをどう捉えて、どう行動するのか、言葉にするのか、どう受け止めて理解するのか。考え、思うのか。そこに絶対の正解は無いのだ。
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「おはよう」と挨拶をすれば「おはよう」と返ってくる。
これも絶対とは言えない。全人類の中に、挨拶をする理由も意味も分からない、そういう文化や風習や習慣が無い人もゼロとは言えないと言っておく。
「おはよう」といえば「おはようございます」だろ。と言う人もいる。
「おはよう」といえば、「おはよう」とは返すものの、体調や機嫌が言葉や表情に出る人もいる。「おはよう」の言い方やタイミングによっても受け捉え方や感想は人それぞれ、受け取る側、やり取りを交わした者の感想はまたそれぞれ違う。
だから挨拶は基本と僕は思っているし。
いちいち気にし過ぎと自分で言いながらも僕も気にし過ぎている。
こういう事も成長なのだ。
人間は、学校や会社や、社会や人間関係、家族から学ぶ事ばかりだ。
それを観えていないから、偏った主観だけで自分を押し通そうと皆している。
皆と言うより、
そういう人がいるから今のこの素晴らしい世界があるのだと思う。
けど僕は、僕にはまだ生き難いと少し思っている。
これが、僕は生き辛い、と言って終わっていると、それは悪い僕の日記になるから、意識している。
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そして
結局は、わからないでしょ、と、わかってはくれないでしょ、が両立するのが僕だ。
何で解ってくれないの、というのが最初にあると思う。
何で僕の事を解ってくれないの、から、(まず、どうせ)わかってくれないんでしょ、何を言っても解ってくれないんでしょ、僕の事なんて何も解かってくれないんでしょ、なんで解ってくれないの、わかって、と、繋がっていくのだと理解しています。
この葛藤が、苦しいとはいえ、これも人から見れば渇望のようなワガママな欲求に捉えられるでしょうし、僕も自分自身でそう思ってちゃんと自分を見つめ直して注意します。
現実は辛くて悲しい。