サヨナラの旅と季節
よく解った事がある。
生きてるって、こういう事だ。
逃げられない。逃げないからこそ、僕らは強い。
叩き潰すまで、最後の最期まで、殺し切るまで、叩き潰す。
そうじゃない。
大人になる。
人間として大人になる。
成長する。
経験する。知識、知恵になる。
そうして言葉、発言に過不足が無くなるの、かもしれない。
正しい力の使い方。
適度、適切な知識と、選択肢を持つ事が大事。
視野が狭くなると、人は盲目になり、痛い目をみる。
目先の欲に、溺れると、自分を見失うと、金が無くなると、余裕が無いと、人は壊れるし、我を失う人生の時期になる。
だから、大人はいつまでも、そんな所で、そんな事を言わない。
僕は口が軽いですから。
実際は僕は軽くない。
人が喋ってくる話の内容が、人と比べて重いだけだ。
だから、僕を表面でしか捉えていない人が罠にかかる。
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人は境界性とか境界線って言う。
けれど、その「境界」とやらを、人は皆、分かっているのだろうか。
僕は自分と他人との境界線なんて、曖昧なもの、漠然としたものだと思う。
みんな、自分は正しいとしか見えないから、思い込むしか至らないのだと思う。僕も至らない。死ぬまで、そういう事を繰り返していくのだと思う。
それでも僕らは生きていかなければならない。
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これだけ個性や多様性が謳われてしまうと、社会は不安や恐怖しかなくなると僕は思っている。
自分軸や発達障害の言い分が正当化されて、無責任な事をしても、何をしても事が済むような価値観。
我が儘をやった者が勝ちというような風潮や価値観に違和感しかない。
これから、この世界線から脱却しないと、世も末だと僕は思う。
どこまでいっても僕の一意見、一視点であることは理解している。
地獄とは言わないけど、世も末だと思ってしまう。
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僕が感情的になると、相手を見て、感情を言える相手にだけ言っていうように捕らえる人もいる。
最後は「やっぱり相手によるじゃん」見たいに言われると思う。
僕は嘘をつかない。
息苦しい。感情に沿い過ぎた。使い過ぎた。
誠心誠意で、その時が来たら全力で、自分で刺す。
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風呂場にいる時、僕はかなりの時間を費やす
これは他人が介入してこない環境下にいることで、自分の行動に集中しているのだと気が付いた。
浴槽の中で僕は遊んでいる。
好きな物を調べたり、好きな事について新しい情報を探したりする。
仕事の連絡やメールチェックもする。
したい事と、したくない事を交互にしながら、延々と時間を消費している。
これは良い事か分からないけど、きっと、浴槽の中以外でもそれが出来るようになるのが僕の最善だと考えている。
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自分だけの空間というものは、閉鎖的で孤立、寂しいと言っても誰とも接していない。社会と繋がっていない。
こう書くと、対面しなければいけないのかと言われるのが気に入らないので、一日中そこで仕事や生活している訳ではないが、何時間も、同じ場所、同じ環境の中で、一日中閉じ篭っているのは人間として良くない。
健康にも良くない。
家族以外の他人との交流や社会とのつながりが無い生活をしている人間が、正常な生活を維持できるとは思えない。
やはり人間は、社会と繋がり、他者との共存、共生を意識する事でしか、見えない社会や世界がある。
そこで観える世界が人間の本当の世界だと僕は今は良く分かる。
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幼少時の愛や甘えに飢えた神経症的な人は「ほっておくことができない」らしい。少し解る気がする。
僕だけじゃなく、僕の家族や一族に共通する部分がある。
ただ、この話も、いわゆる人格障害や発達障害や愛着障害のトラウマだからではなくて、そういう人は、こういう事をする人は普通に一杯いて良く話のネタに散々なってきている。
それなのに「こういう人は」と断定してしまうのは怖い考え方だなと僕は強く思う。
確かに、境界線や自己愛が酷い人は、他人や物事を自分の言うとおりに支配してコントロールしたいと言うような言動が酷く見られるとは思うけど。
それって本人が解っていないだけで、気が付いていないから見えないだけ。
気が付けば誰しもが当てはまる。
「走馬灯みたい」
そう、また思った。
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僕は、ザゼンボーイズの日本武道館と言う一世一代のイベントに参加し無い選択肢を選び、自分の人生の大切な一つだけれど、これで全てが終わった訳じゃないと考えられるようになった。
そうか
向井君がナンバーガールの復活時
「俺たち終わったのかな」
「まだ終わっちゃいねえよ」
と映画の台詞の様に、ライジングサンのキャンセル時にも言っていた。