誰かを利用して生き延びた奴は、今度は自分が利用されて苦しめられる
自分がしている事、自分の姿が見えていない人は僕とは合わない。
それは、見えている、考えることが出来る人が好き。
大事だという事。
考えられない人とは僕は、世界が合わない。
・・
これは、出来ている人、としか付き合わないという事ではない。
それは大間違い。僕の表現が間違っていれば悪い。
正直、僕なんて、酷いものだ。
自分で言いたくないし、言ってどうなる事ではない。
けど本当に、僕なんて酷い今を生きていると思う。
言いたくないし言われたくないけど。
言われたくないし言わせたくも無いけど。
僕なんてそう良いものでもない。
酷いものだと自分で言って、開き直っている訳でもない。
僕だって毎日必死で考えている。
考えるだけでなく、ひとつづつでも形にしている。
お前が自分が頑張っていると言う、それを僕だってしている。
お前が頑張っている時に例え僕が眠っていたとしても、お前が眠っている間に俺は頑張っている。そういう事にすら気が付かない。視野が無い。
そういう人とは付き合えないし、話が成り立たない。話にならない。
だから、そういう意味で上記の言葉を使った。
・・
誰だって過ちを犯すし、間違いもある。それを言っているだけ。
だけど、そこに一切気が付かない、見る事すら気付きもしない人に対して。
覚悟して、覚えておけ、わかっていろよ、と、僕は、強く想っている。
・・
僕はこの二年、人生においての優先順位を決めて、そこを軸にして、己の生きる道や生き様を変えて、そこから生きていこうと決心した。
それも日々変わるのではなく、日々成長していくのだ。
都合よく逃げたり変えたりはしない。絶対にしない。
それしか僕に生きる術や道は無い。
「僕ら」から「僕」に変った僕は、今も生きている。
この話はいつか必ずどこかで忘れないうちにしておきたいな。
辛くても苦しくても寂しくて孤独でも、想い出はいつも悲しくても、僕らは生きている。
・・
こんな言葉で片付けたくはない。
けど、これも僕の「生きた証」だ。
僕の人生であり、僕だけにしかない世界だ。
・・
共有したかった。
共感したかった。経験したかった。
夢も現実も一緒に生きて幸せになりたかった。
僕の偶像崇拝と、子供で未熟成長だった僕の歪な拗らせた過去や過程。
これも僕の過去と同時に僕の人生、生き様だ。
・・
僕は学生時代から最近までの間。
人間の悪い、醜い、汚い、それを僕の視点で見て聞いて経験してきた。
痛い目を見て、そして、いざ、を繰り返す。
これからも人生はそうやって続くのだろう。
嫌だ、一言で言って嫌だよ。
発狂してないだけで、そうやって逃げて、自分勝手に、好きなように生きていけるなら、生きていきたいものだよ。
・・
思い込みの話について、僕はこういう例えを出す。
殺人事件があった。
・
念を押しておく。
僕の周りで直接、そこまで頻繁に表沙汰に大事になるような事件は少ないけど、この歳にもなると、少ない、程度で。
無い話ではない。
聞こえてくる話が噂話だとしても「そんな事はありない、そんな話は普通では無い」と言うような環境で僕は生きてきていない。
死ぬまで何度だって言う。
僕の知らない世界や人や社会があるように、
君にも想像もつかないような現実がある。
・
話を戻す。
事件(事案)についての判断は法(司法)で裁かれるとして。
「人を殺した人にも事情がある。だから、殺された側の人の気持ちや意見も分かるけど…」
と、人は言えるだろうか。
・
当事者になった経験がある人、にしか分からない。
想像する入り口にも、土俵にも立てない、と僕は強く思う。強く言う。
経験者でなければ痛みも解らない。
不安も恐怖も、怒りも動悸や動機も解らないと思う。
当事者として戦わなければ理解どころか共感すらできないと僕は思う。
だから子供なのだ。自分だけの視点、自分だけの軸で、人間は他者ありきの生物という事の
「個性の意味すら履き違えて、死ぬまでそうやってコミュニティを形成しているだけ」
それで最後まで行ければ、それが正解だったり、
「そう言うもんだよ」
って言われるだろうし、そいつは言うのは間違いない。
だから、人間はいざ、痛い目を見て、その経験から何を学び、自分の力にするのか次第で人生は大きく大きく変わる。
・・
どんな事件や、例え話にも、群像する全ての人の、言い分があると思う。
けれど。
それで話や事が済まないから人間なのだ。
・
僕らは動物じゃない。犬猫サルじゃない。やりたいようにやって、好きなように生きて、それで死んでいく生物ではない。
両方の意見があるからと言って、喧嘩両成敗にはならない。
そういうもんだよね、そういう話もあるよね、と。
有耶無耶には僕はしない。
・
それを僕が異常者やサイコパスのように言う奴は、お前はどうなんだ?と、言わないでおいてやる。
お前も、充分、糞勝手な、卑怯なペテンだと思うよ。
どんな理由や言い分を並べて必死になっても、
僕もお前も、僕も君も、僕も君もお前も、全員。
感情や自分の気持ちに素直に従ったところで、話は何一つ変わらないから。
・
それを何も解かっちゃいない。
子供や餓鬼や障碍者レベルでは、何も解からない。
それを個性というのかね?
・
誰かが起こした行動が、話の中で、群像する中で、問題に火をつけた。
引き金を全員が引いたのは、誰かがした事が人間のして良い事を一線を越えていたからだ。
その事を自分に都合よく解釈するのは自由だけど、自由の代償は双方に大きくなる事だけは理解しておかないといけない。
自論の強化をし、詭弁で、己の我を押し通せると思うな。
・
それでも「お互いに言い分があるからお互い様だよね」と言うのだろうか。
言うのだろう。大抵、人間はそういう者だ。
だから死ぬような事は無いし死ぬほどの事かと言えるのだ。
ここらから、いわゆる怒らせチキンレースなのだろう。
「やれるもんならやってみろや、殺せるもんならやってみろや」と。
・・
そして、これも、自分への手紙、自戒だ。
・
全員並べ。
全員が土俵に上がって、まず最初は公平に。
大人同士、話がまともに成り立つ人たちで話し合おう。
話し合ったって、忘れて、嘘をついて、手のひらを平気で堂々と返す輩もいるから、僕らと話が出来ると思ってる人が、出て来いと思う。
10月、今日がこちらが決めた期限。我慢の一戦を超えた限界点。
そんな事も知らずに、のうのう、と私は、自分は、俺は、と言って
こちらかは、「好き勝手にしてる」奴を野放しには僕は絶対にしない。
人間にはね。
して良い事と、悪い事。
その度合いや線引きがあるのよ。
それを超えたら、もうそれは殺し合いよ。
大人は大人の土俵で。
人間としては人間として。戦い、話し合い、やりあおう。
・・
誰もが大人になる。
社会人になり、自分だけの人生ではない責任を大切に抱える。
今までの過程を背負う。背景なんてお構いなしだ。
人間は常に戦っている。
戦争し、争い競い合い殺し合っている。
自分が生きている、この背中や背景には、すべての人の思いがある。
御陰様の力で僕らは生きている。
それを「自分の人生は、自分の人生だから」といい、言葉だけ綺麗に上手にまとめて、それで生活が成り立っていると思っている人は話にならない。
悪いけど、僕は生きている世界が違う。