ドライビングおにぎり
11月17日(日)
私はosseのイベント出店に同行するため、
伊勢にあるNaYA coffeeさんへお邪魔していた。
この日は、東京を拠点に活動している
パントマイムユニット"ゼロコ"による
ライブパフォーマンスを開催していて、
私たちも夜の部を鑑賞させてもらった。
ライブのタイトルは
「ドライビングおにぎり」
可愛らしくもあり、
どこかシュールな香り漂うネーミングに、
始まる前から私はワクワクしていた。
テレビなどを通してパントマイムを見ることは
あったけど、目の前で見るのは今回が初めて。
色々な感想を述べたいところだけど、
演目の詳細について語ろうとすると
取り上げたいポイントが多すぎてキリがないし、
ちゃんと面白く説明できる自信もないし、
生で見てこそ!だと思うので、
あまり多く説明しない。
ぜひ作品映像や、生の舞台を
鑑賞しに行ってください。
ただ、私が今回のパフォーマンスを通して
考えさせられた一番のポイントを挙げると、
「伝える」ことの本質についてだ。
パントマイムを知らない人のために
念の為、簡単に説明。
パントマイムとは
体の動き、表情のひとつひとつで
その場にないはずのモノを
私たちの脳裏に映し出してくれる、
ちょっぴりシュールでユーモラスなパフォーマンスのこと。
人の想像力を刺激し誘発する、
最高におもしろい身体アートなのだ。
私は、大した語彙力もないくせに、
趣味が「言語化」みたいなところがあって、
パントマイムのように
直接的な言語をあえて排除した表現
というものが、なんだか新鮮で、
とてもとても興味深かった。
明確なコトバを用いない、
体全体や擬音を使った表現は
演者の技術は勿論だが、
見る人の想像力があってこそ、成立するもので。
つまりは表現者側の"一方通行"な主張ではない。
そこにいる全ての人の中に
「共感」が生まれている。
だからこそ私たちの心は動かされ、
湧き立つのだなと、見ながら思った。
お客さんのリアクションや言動を
上手く拾い上げパフォーマンスの中に
組み込んでいくところも最高に素敵だった。
「この空間で繰り広げられる物語に、
私たちも参加できているのだ!」
と感じさせてくれるのが嬉しかったし。
途中、お客のおじいちゃんが
「じょうず!じょうずー!」と言ったのを
喜んで、その言葉を引き出すために
パフォーマンスを頑張るという流れが
可愛すぎて笑けた。
私は日頃、人の思考や行動原理を
いかに上手く言葉に落とし込むかばかり
考えて生きてしまっているのだけど、
考えすぎていつも回りくどくなっている。
そんな自覚が割とある。
相手に「伝える」という表現をする上で
シンプルで分かりやすいということが
とても重要なんだと、
当たり前のことのはずなのに
ハッとさせられた。
暗喩やら含みやら、
妙な回りくどさや複雑さを介在させない、
人の心に「届く」表現。
あの場で、私たちはほとんど
言葉を交わしていないというのに
コミュニケーションがバッチリとれていた。
その一体感が、私たちを自然と
心地よく楽しい空想の世界へと
誘ってくれていたのだ。
日常に潜む面白いシチュエーション
もしこんなことが起こったら?
もしもこんなことが出来たら?
という空想から広がる物語。
偶然の重なりから生まれる笑い。
一つ一つは突拍子もない発想や
着眼点から生まれているものなのだけど、
彼らが描くストーリーを、言葉もないまま
私たちはしっかり認識して楽しんでいた。
例えば、"丸いカタチの影が通り過ぎていく"
この事象に、本来は何の意味もない。
はずなのに。
そこで流れている車の音や、影のスピード感から
私たちは無意識に
トンネルの中を走り抜ける情景
を連想してしまう。
丸い影とトンネルは、直接的な繋がりはないが、
演出のすべてが私たちの記憶をざわつかせ、
その場のみんなの脳裏に景色を想起させる。
あの暗闇の中で、私たちはみんなで一緒に
ドライブを楽しんでいた。
表現って、こういうことなんだよな。
そう、体感した。
オーバーな体の動きや、いたずらっぽい笑み、
びっくりして目をひん剥いたような顔。
繰り広げられる幾つもの動作がなんとも滑稽で、笑いを堪えきれなくさせる。
どれもシンプルな動きなのに、
どうしてこんなにも可笑しくて
ワクワクとした気持ちになってしまうんだろう。
大人になるにつれて、忘れそうになっていた
無邪気であるがままの気持ちを
思い出させてくれるような時間だった。
私はこれまで、気持ちを相手へ伝えるための
1番の手段は「言葉」だと考えてきたけど、
まるでそんなことないのだと思い知った。
所詮言葉なんて、ごく限られた人々にしか
伝えることのできない、案外拙い手段なのだ。
何か表現したい、と思う際
「自分の思想を分かち合ってくれる人を
探すための手段」
として表現を用いる者と、
「自分の中から生まれた世界を
たくさんの人に見てもらいたい」
という気持ちをカタチにする者の
2種類あるなと私は思っていて、
(ザックリ分けるとね)
どちらも「共感を得たい」という面では
共通しているのだけど、
根本的な心のあり方が違っていると思う。
前者は、届く範囲が限定的であるが、
刺さる人には深く刺さる。
しかしそれと同時に、表現者のエゴがにじみ出ていることも多いし、ついていけない人もいる筈。
でも、それはそれで面白くて私は好き。
後者には伝えたい・届けたいという
まっすぐな意思が強いので
観客に寄り添った表現になっている、
そんなイメージ。
子供もお年寄りも、国籍だって関係ない。
幅広い人たちが共感できるし、
誰も置いていかない。
そんなあたたかみのある表現の仕方だと思う。
今回の作品はどれもユーモアをいっぱい織り交ぜた笑いの絶えない演目だったのに、
見終わった後、どこかあったかい気持ちになれたのは、そのひたむきな心が私たちに届いていて
じんわりと余韻を残していたからなのだと思う。
そんな一途な思いを全身で浴びてしまうと
今みたいにわざわざ無理くり言葉を並べたてて
ダラダラと感想を綴っているこの行為が、
なんだか浅ましく思えてちょっと恥ずかしくなる。
でもこれが、私なりの「伝える」ための
表現なのだし、私らしさのだから仕方ない。
例えば、ステキなものをみつけたとき
それがどれだけステキだったのか
私が感じた 熱い気持ち を誰かに教えたくて、
必死に言葉を探すのだけれど。
より的確で、且つ私の心の感動や熱量を
しっかり伝えられるように
沢山の言葉を選びすぎてしまって、
それでも思うように伝えきれない
そんなもどかしさから、
途中で力尽きてしまいそうになる。
たとえ未熟でも、完璧でなくても良いので、
きちんとキモチを 届けよう とすること。
届けるための 行動 を疎かにしないこと。
それを忘れてはいけないのだ。
言葉を適切にまとめるためのエネルギーより、
相手に届けるための行いに、
ちゃんとエネルギーを使える人になりたい。
なんてことを考えた。そんな夜。
追伸
県外から訪れているお客さんが
とっても多くてびっくりした。
みんな各々1人で来てるのに、
これまで会場でお友達になったのか
みんな和気藹々としてて、
お客さんたちが醸し出すあったかい雰囲気から
ゼロコの2人がたくさんの人に愛されている
とてもとても魅力的な人たちなんだということが
すごく伝わってきた。