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【遺書日報_セカンドシーズン】2021年4月5日

こんばんは。今日も書きます。


昨日、インタビュー調査やフィールドワークなど、深く人とコミュニケーションをとるタイプの研究ができなくなったと記しました。


なんとなく気分が乗らないだけなんじゃないかと思いたいのですが、どうやらそうではないみたいです。




今の私は、他者との対話がひどく苦痛に感じます。

誰かの話を受けとめることも、誰かに私の話をすることも苦痛が伴います。


noteやTwitterなどは「独り言の文章化」と捉えられるのでそこまで忌避感はないのですが、いかんせん、生身の他者とのやり取りはしんどい。


相手の顔色をうかがってしまう自分にむかつく。

いちいち私の人生の端々に口出しされるのが鬱陶しい。

常に肯定的な場作りを意識しなければいけないことに疲れる。



これは全て勝手に私が心の中で思い描いていることです。

私と関わる他者が、私に強要しているわけではありません。

自分の意思で人付き合いを苦しいものとしているに過ぎません。


他者に非はなく、あるのは私の捉え方云々のみ。


このような状態では質的研究どころではないと気づきました。

やはりすごく悲しいです。



私の捉え方の問題ならば、捉え方を修正すれば良いだけのこと。

と簡単に考えていたのですが、一度「多かれ少なかれ他者は、私の生き方のはじっこをつまみ食いしては面白がって揶揄する、だから怖い」と思い込んでしまうと、なかなかそれを修正するのは難しいです。


何故なら、そのように感じる体験を何度も何度も繰り返しているからです。

元気がある時は「うるさいばーか」で突っぱねられたことでも、元気がない時はなかなか難しいです。


私は今、「自己開示を避けること」、「隙を見せないこと」、「生活に他者を侵入させないこと」で精一杯です。

他者とラポールを築くことにすら、拒絶感があります。


つまり、私は他者とともに、ライフストーリーを深掘りする作業は、もうできないのです。





文章にすると改めて辛くなってしまいました。


これにて本日の日報は終わりです。

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