「集めることで何かを強制する」という権力が、非集で見える化した、という話。
最近、「あ、なるほど」と思ったことがあって。それは、学校というものに期待されてきたのは、「勉強すべき情報を発信するという機能」ではなくて、「勉強を強制する機能」なんだ、ということで。
例えば、勉強すべき情報を発信するという機能だけなら、オンラインビデオ授業で配信したっていいわけです。で、それだと、教養系のYouTuberとの差異はどこなの?別にYouTuberでいいんじゃないの?って話になります。話の下手な先生の授業を聞くくらいなら、YouTuberの話の方がわかりやすいです、っていう理屈だって成り立つわけです。
ただ、「勉強すべき情報を発信する」人というのは、あくまで「勉強すべき情報を発信する」という行為しかできないわけだから、「教わりたい学生」なら、そこで発信された情報を受け取って勉強することができても、「教わりたくない学生」にはいくら発信しても空振りになるだけで、勉強させることができないんですね。
一方、「勉強を強制する機能」は違います。あくまで勉強を強制するのが役割なわけですから、教え方が下手だとか、内容が薄いとかは大した問題ではありません。確かにそれでは「勉強すべき情報を発信する」機能としては不十分かもしれませんが、勉強したくない人にも、意思を曲げさせて、勉強させることができるなら、「勉強を強制する機能」としては十分なわけです。
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