脅迫も信用が命
暴力って良くないとされているじゃないですか。いや、実際、そうだとは思うんですよ。僕らの身の回りにある暴力というと、それこそ戦争だったりとか、殴る蹴るだったりとか、ハラスメントだったりとか、差別だったりするわけですから、そういう暴力をふるう人は、知的な配慮が足りない人だ、なんて思われたりしているかもしれません。
しかし、暴力を振るうことには知性が伴わないか、というと、そうでもないと思うんですよ。
例えば、「人質の命がどうなってもいいのか!」みたいな、暴力による資源提供の強要ってあるじゃないですか。いわゆる脅迫ですね。これは人の命を暴力に晒しているわけですから、良くないことですよね。しかし、そこで脅される側が、脅す側に対し、資源を提供するとしますやん。そしたら、暴力は停止されないといけないんです、当たり前ですけど。もし、望んでいた財の提供が得られたにもかかわらず、暴力を停止しなかったらどうなるかっていうと、次からその暴力による強要が効果を失うことになるわけです。つまり、それをしてしまえば、変な話、暴力者も信用を失うわけですね。案外、暴力によるコミュニケーションも、返報の約束が命なんですよね。そしてそういう損得を計算する、マネジメントする知性が、暴力の運用には不可欠であることがわかります。知的でないと暴力によるコミュニケーションはサスティナブルにならないんですよね。暴力のアマチュアは、求める資源が手に入ったのに、味を占めて暴力の停止をしなくて、結果、バブられてしまっていっただろうと。
暴力性を批判する事は当然必要だけど、おそらく一定数の人々は、その暴力者と共存する道を選んできたんだろうと。人々は、その暴力者が求める資源を、状況に応じて提供したりしなかったりすることで、「暴力者の暴力をマネジメント」をしてきたはずなんですよね。その程度には人ってのはたくましいはずだと僕は思っていて。
言い換えれば、暴力者のマネジメントスキルを持つ人々にとっては、暴力者ってのは、ある意味わかりやすく、扱いやすい、手のひらで転がしうる存在であったろう。
もちろん、そういうマネジメント能力のない人々にとっては、暴力者は単なる恐怖にすぎなくて、そういうコミュニケーションを取る相手にはいなくなって欲しい、嵐のように過ぎ去ってほしいと願うしかなかっただろう。
暴力も一つのコミュニケーションの手段の一つだ、っていうのは、泣く赤子を見ていると思う。人はまず、泣くとか騒ぐといった暴力で親から必要な資源の供与を強要することを覚える。
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