電車の中で、知的好奇心に目覚めし「リビドーおじさんa」のポートレート
こないだ、電車に乗ってて、面白かった場面を見たよって話なんですけど。ある「おじさんa」がいてね。乗ってるんすよ、電車。ガタンゴトンっつって。で、駅について。ドア開いて。おじさんa、降車しようとするんすね。したら、別のおじさん、「おじさんb」がね、駅のホームに立ってて、電車のドアが開くやいなや、乗り込もうとするわけですね。で、おじさんaからすると、電車を降りようとすると、出入り口の真正面におじさんbが立地塞がる形になって、スッと降りれへんかったわけですね。なんとかおじさんbを避けて電車を降りたおじさんaは、「なんであいつ避けへんねんブツブツ」と言いながら歩いて行ったんすね。で、僕はそれを横で見てて。面白いなあって。
何が面白いかっていうと、ここでおじさんaはね、どうも怒りらしい感情を持っていたみたいなんだけど、それ以前にまず「問い」が生まれているってことなんすね。「なぜおじさんbは出入り口の脇に避けないのか、降車する者が優先ではないのか」という「問い」なんすよね。
で、そこから察するに、おじさんaには、いわば「世界観」があったってことなんすね。「電車では、降車する者が優先という原則があり、乗ろうとする人は、降りようとする人を避けるもの」という世界観ですね。おじさんaにとってはそれが既知の、世界はそういうものだ、という認識だったわけです。
しかし、今回の出来事において、おじさんaは、自分の中に持っていた、「当然世界はこうであろう」という世界観がね、崩されたわけですよ。そこで、おじさんは思うわけです。「なんでだ」と。
これ、なんやいうたら「知的好奇心」なんすよね。知的好奇心ってのは、ものごとを当然のこととすっと受け入れるんじゃなくて、これは一体なんだろう?どうしてそうなっているんだろう?と食い入るような、好奇の気持ちですね。これはいうたら「学問の基本」で、大学で学生さんに身につけてもらおうと大抵の教員がやっきになってるやつであるはずです。そんな知的好奇心を、僕は電車で小さなトラブルに遭遇したおじさんが発揮するのを見た。
で、この知的好奇心に、なぜ怒りが伴うのか、というのも面白くて。既知の世界観というのは、いわば自分の縄張りみたいなもんなんすね。そこに、おじさんbという、自分の世界観を揺るがす未知のイレギュラーが入ってきた。おじさんaにとっては、これはいわば侵入者なんすよ。そのことに、まず体が反応するんすね。理性でなく。危機を感じる。まずは危機を排除しないと、と。そんな体が示す反応が「怒り」なんすね。怒りっていうのは、攻撃と排除で、侵入者の脅威から縄張りを守ろうとする感情です。敵が縄張りに侵入しているのに、じっくり考えてから行動すると、やられちゃうので、ぼくら生き物っていうのは、怒りは思考よりも素早く起動し、体を動かします。よく知られている通り。
で、この件に怒りを感じていたおじさんaですが、これを、「おじさんが偏狭だ」とか「怒りっぽい」とかいうように捉えるのは、あまりにイージーだと思うんすね。怒りは体の反応でしかない。それより見るべきは、おじさんの知的好奇心の方です。
知的好奇心は、おじさんの世界を広げる力です。なぜなのか。おじさんaは、じぶんの世界観では説明できない事態がある、すなわち、自分の既知の世界観が完全なものではない、ということを知ったわけです。「無知の知」です。
そこでね、おじさんaは、「降車優先を守らない奴が馬鹿なんだ」と否定で理解することもできます。イージーな手です。異物であるおじさんbは、無視してよいイレギュラーと理解する。そうすることで、自分の世界観の安寧を守ることは可能です。しかしそれはおじさんの世界観を広げません。アップデートしません。
一方で、おじさんaは、自分の世界観の未完成を悟り、なんでやねんと「問い」をつぶやきました。この問いは、自分の世界観の外の事象への理解へとおじさんaを進ませ、やがてはおじさんaの世界観のアップデートへとつながるでしょう。おじさんbという事象も包含する、より広い世界観を獲得できるはずです。
理解できないおかしなことに対し、関西人は「なんでやねん」とツッコミますが、これって否定と排除の言葉であるだけでなく、知的好奇心の言葉なんだよなというはなしなんすね。
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