まちづくりにおける「にぎわい」の正体と、まちの「共時性」〜あるいは「にぎわいポルノ」の正体について
「まちづくり」というところの「まち」っていうのがなにかっていう話がありまして。まず定義しないと話がしづらいのでよくこの話をしています。
「まち」っていうのは「町」と書く字で、「田(田んぼ)」と「丁(交差する道路)」からなります。田んぼとは生産インフラ、道路とか交通インフラのことなので、どうもこの私達の生活に便利なインフラが集合している状態を、私達のご先祖様は「町」と呼んだらしいです。
一方で、インフラだけ集まっていても、そこに人の姿がないと、まちっぽくない。むしろ「ゴーストタウン」なんて呼ばれたりします。なので、インフラの集合に加えて、その利用者集団というものが「まちっぽさ」の演出に必要っぽいです。なので、まちっていうのは、インフラ、つまり「広義の財の共同利用集団のこと」とまずは説明できます。
しかし、時々しか人の通らないストリートは「まち」っぽくないんですよ。どうも同時に複数人がそこを使う画がいるらしいんですよね。つまり、まちの必要条件には、「共時性」(コンテンポラリー性)があるってことなんすよね。
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