「遠慮がち」な人が集まった画一的な空間に、案外多様性が花開くのかもしれないねという話
「縁的空間」であり「都市の余白」としての「商業施設ロビー」
こないだ、お友達から教えてもらって、へえなるほど、と思ったことで。
とある商業施設のロビー空間が、中高生の放課後のたまり場になっているんだって。そこで彼らは、思い思いに食事をしたり、ゲームをしたり、勉強をしたりしている。もちろん、ロビー空間はいわば単なる「空き地」なので、そういう使途を目的に設置されているものではない。そもそも彼らが滞在する事それ自体は商業施設にとっては一銭も儲けにつながるはなしではない。ただ、追い出すのも何だなあということらしい。
で、お友達が中高生にヒアリングをしてみると、もちろん彼らは学校にとどまることもできるそうだ。しかし、学校でそういう滞在の仕方をしていると、「早く帰れ」だの「宿題はやったか」だのいろいろ言われて面倒だ、ということらしい。
学校というのは、授業を受けるための空間だとするならば、授業が終わった放課後はさっさと帰るか、授業の延長としての宿題をするならまだしも、そうではない使い方は容認されないということなのかもしれない。
ここでいう「ロビー」空間というのは、使途を定めておらず、誰でも使えるという意味で、以前書いた話でいうと、藤原辰史さんのいう「縁的空間」であり、大森文彦のいう「都市の余白」だ。
ロビー的空間の不成立要件としての「オーバーユーザー」問題と「共有地の悲劇」
で、まちづくり活動者は、こういう「ロビー」的な空間を作ろうとしばしば試みる。しかしときにそれはうまくいかない。
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