「質問されること」が「攻撃された」と受け取られる場合がある問題について
僕らは「話し好き」なのに、「質問」を「攻撃」と取る感性がある
「質問されること」が「攻撃された」と受け取られる場合がある。これはなかなか面白い現象だと思う。
僕らは自分の話をしたがる。実際に研究では、人は自分の話をしているとき、報酬系が反応するそうだ。自分の話をするのは生き物としての人にとって快楽でもあるのだ。だからか話し好きな人が際限なくずっと自分の話をしている、という風景を僕らは見慣れている。
そんな人類だが、にも関わらず、質問されることを攻撃と受け取る場合がある、というのが面白い。
質問を受けた、ということは、答える正当な権利を得た、ということである。「いい質問ですね!まさにそれについて言いたいことがあって・・・」「いやあ、その問いは思い浮かばかなかったな。しかし、面白い質問ですね。それについて私の考えを述べると・・・」など、いくらでも話を続けることができる。少なくとも、質問される以前よりも饒舌に語っていいはずだ。
しかし、攻撃と受け取った人々は、しばしば沈黙をしたり、焦ってしどろもどろになったり、なんでそんなことを聞くんだ、と怒りを表明したりする。
「質問嫌悪」は「質問を偽装した攻撃」を受けた経験の蓄積から生じるPTSDみたいなもの?
自分のことを話すことが好きなはずの人類が、より話せる機会であるはずの質問を嫌うのだ。「質問嫌悪」とでもいうか。これはなんだろうか。
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