「コミュニティにしかできないこと」とはなにか。あるいは「それをいかにやっていくか」。
非集時代に入り、コミュニティの本質を考える時間が増えた
今回の疫病騒ぎがまちづくり分野において示唆的だったのは、我々が様々な問題解決や価値創出にあたって、いかに「集まる」ことに依存してきたか、ということでした。その「集まる」という手段を抑制せざるを得ない状況を、僕は「非集」と呼んで注目してきました。
そんな非集の環境で、「コミュニティにしかできないことはなにか」という疑問が僕の周囲であがっていて。面白いなと思ったので、一度考えをまとめてみようと思いました。
コミュニティを、社会的ネットワーク論と社会関係資本論の世界観で眺める
まず、コミュニティという語は歴史的に多様な意味が付与されているため、誰もが同意する定義ができなくなっている代物になっています。その点についてはこちらにまとめています。
なので、ここでは僕が住んでいる京都市の条例に定義されるコミュニティに限って話を進めていきます。
まず京都市のコミュニティ条例はコミュニティを、「人々のつながりを基盤とした地域社会」と定義しています。
第2条 この条例において,次の各号に掲げる用語の意義は,それぞれ当該各号に定める
ところによる。
(1) 地域コミュニティ 本市の区域内における地域住民相互のつながりを基礎とする地域社会をいう。
これは地域社会学的にいうなら、「コミュニティ解放論」に由来する、「社会的ネットワーク論」に基づく世界観ですね。交通システムと社会的分業の発達によって「地域」という「輪っか」の中で人々の生活が完結するわけではなくなった。その結果、「輪っか」の中の小宇宙を観察するだけでは、地域社会の有様を説明することができなくなってきました。その時、「ああ、もうコミュニティっていうのはなくなってしまったんだなあ」と考えるのが「コミュニティ喪失論」です。それに対して、「いやいや、コミュニティっていうのは、輪っかのくくりから解放されたんだ」と考えるのが「コミュニティ解放論」です。
で、コミュニティが解放されたあと、じゃあ一体なにが地域社会の構成単位になるんだっていうと、「人と人とのつながり」であると考えるわけですね。これがいわゆる「社会的ネットワーク」っていうものになります。社会をネットワークの集積として見るっていう見方は、どちらかというと現代ではオーソドックスな見方になっているように思います。
で、話を戻すと、京都市はこのオーソドックスなコミュニティ解放論に基づく社会的ネットワーク論の世界観で条例を作っているだな、というわけですね。
「ネットワーク」とは、「情報処理システム」である
さて、人と人とのつながりとは、そもそもなんでしょう。ネットワークというのは、「ノード」と「エッジ(もしくはタイ、リンク)」からなる網目として表現されます。「点と点」が「線」でつながっているとき、この「点」が「ノード」で、「線」が「エッジ」ですね。「点」は線の端っこにあるので「端末」ともいいます。
ネットワークというものの特性を一言で表すならば、「情報処理システム」です。端末Aと端末Bとの間にある線を通じ、情報が移動し、端末A、端末Bの持つ情報が更新されます。これが「情報の処理」ですね。
いくら端末があっても、端末と端末の間に線がないと、情報の移動も更新もできません。電波が届かないスマホみたいなものですね。
で、人間社会をこのネットワークの例えで解説する社会的ネットワーク論だと、端末は例えば人間ということになります。そして、人間同士の間で情報をやり取りする場合、そこにつながりができると考えます。
さて、京都市のコミュニティが社会的ネットワーク論に依拠し、社会的ネットワークとは人間同士の情報の処理システムであるとすると、冒頭の「コミュニティにしかできないこととはなにか」というと、この「情報の処理」であるという回答になります。
ただ、これだと抽象的すぎてわかったようなわからないような話なので、以下、もう少し具体的に考えます。
「人間」によって構成される「社会的ネットワーク」における「情報の処理」とはなにか
サポートされると小躍りするくらい嬉しいです。