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コミュニティは「目立って活躍するスター」だけで回るわけではない〜金子郁容他『コミュニティのちから ”遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見』

 金子郁容さんというと、彼が書いた、まさにタイトルどおりの「ボランティア」は、おそらくは現代においてもいまだ使われているであろうボランティアの理論を提示した、記念碑的一冊だったと思う。これが92年、すなわち阪神大震災と、その後のボランティア元年と呼ばれる時期の直前に書かれていることは、今あらためて振り返っても重要であろうと思う。

 そんな金子さんが、コミュニティ論のさらなる政策への啓発を意図して書いたのが本書で。

 これはいわゆる一般向けの書籍であり、この本の元となる理論を記述した専門書はコチラで。

 本書がコミュニティ政策論に示した示唆については、こちらにまとめたのでご興味のある人は読んでみて。

 この論文でも詳しく書いたのだけど、金子さんの論の面白いところは、その徹底した「実用性」で。コミュニティって、どうしてもナイーブというか、エモーショナルな要素が含まれやすい概念であり、そのため論者それぞれの「思い入れ」が強く出る。そのため、随分と実用性が低い言葉になりがちで。その点、金子さんは、そういうエモい部分をズバッと切って、とにかく実用性重視のロジックを作っていることだと思っていて。ズバッと切るといっても、それは、乱暴とか雑である、ということではなく、僕は政策提言者としての誠実さだと思うので、推しなのであるけれど。

 さて、本書によれば、コミュニティとは「つながりの集積」である。このあたりは、現代の一般的なコミュニティ論としてさほど特殊な見解ではない。しかしここでエモいコミュニティ論は、しばしばこの「つながりの集積」自体をエモーショナルに持ち上げてしまう。金子さんは、そこにとどまるのではなく、コミュニティが「つながりの集積」であることそれ自体はコミュニティの性格の説明でしかないと見る。例えば、「おにぎりとは、米でできている」と言っているようなものなのだね。で、おにぎりに期待される役割はなんだっていうと、例えば美味しさを感じるとか、空腹を満たす、とかじゃないですか。つまり、米に含まれる栄養とかが重要なんだね。じゃあ、「つながりの集積」に期待される機能ってなんだ、というと、「ソーシャルキャピタルの器になることだ」っていうわけです。

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