二つの手〜たまごまるに捧ぐ〜
ことばは、断片だと私は思う。
その人が考えていることのすべてを、言葉では表せない。
その人の想いの内が氷山だとしたら、言葉は海上に見えているほんの一角に過ぎないのだ。
それを私に教えてくれたのは、一つの詩だった。
ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、ことばだ。
長田弘「花を持って、会いにゆく」より
その断片は、不完全であるかもしれない。
でも、不完全ゆえの、美しさと可能性を孕んでいる。
ひとは、ことばとことばのあいだにある行間を自由に想像できる。
そして、ことばは、世界という全なるもののうち、ほんの断片を切り取る。
その断片は、パズルのピースのように、誰かの心にぴったり添うことがあるだろう。
でも、べつの誰かにとっては、あまり合わないものかもしれない。
私にとって、ある美しい詩の一節は、ただ美しいだけの断片だった。
あまりにも美しくて、私にはしっくりこなかった。
けれど、私の心が変化すると、その断片は私にぴったりと寄り添うようになった。
それは、こんな断片だ。
As you grow older, you will discover that you have two hands,
one for helping yourself,
the other for helping others.
年を重ねるにつれて、あなたは二つの手をもつことに気づくでしょう
ひとつは、あなたを助ける手
もう一つは、だれかを助ける手(拙訳)
ーTime Tested Beauty Tips (by Sam Levenson)
引用元 https://hellopoetry.com/poem/672625/time-tested-beauty-tips-by-sam-levenson/
これは、オードリーヘップバーンが愛した詩の一節として知られている。
彼女の生きざまそのものを歌い上げたような詩だ。
この詩をはじめて読んだとき、あまりにもきれいだから、私の心の表面をさっと流れていってしまった。
けれど、今はこの詩に強く惹かれている。
この詩は、私にとってはきれいすぎる。
いつも自分のことに精いっぱいで、だれかに差し伸べる手を持っていない私には。
でも、今、手を差し伸べたい人がいる。
それは、研究室の後輩たち。
もうすぐ卒論の提出締切が迫っている4年生の子たち。
彼らは、今年ほとんど大学に足を運べない中、孤独に卒業論文を書いている。
彼らを少しでも手伝ってあげようと申し出たのは、私ではない。
孤独に戦っている後輩たちを助けようと、院生の一人が声をあげた。
院生みんなが賛同して、後輩たちひとりひとりに寄り添うことになった。
卒論なんて、大学を卒業するために必要なだけと思っている人だって多いかもしれない。
でも、卒論は、大学4年間の集大成だ。
今年は、きっと卒業式もない。
それでも、4年生を少しでも明るく送り出せるように、
私はあと数日間全力でサポートしたいと思っている。
でも、だれかを助けたいという気持ちだけでやるわけじゃない。
私は、いつも後輩とうまく関係を築くことができなかった。
先輩には、かわいがられるかもしれない。
けれど、後輩には嫌われてしまうことが多い。
なぜなのか、わかっている。
それは、いつも私が自分のことしか考えられないから。
私には、妹がいるけれど、私はあまりお姉さんらしくない。
いつも妹に頼りっぱなしで、1日3回くらい「もつべきものは妹だ」って思っている。
妹は、いつも「ももちゃんって蚊みたい」(訳:うるさいから、あっちいって)と言っている。
後輩は、はじめは私を頼ろうとしてくれる。
でも、次第に私が頼れる器ではないことを見抜いてしまう。
だから、気づけば、そっと距離をとられたり、敵意を向けられたりすることが多かった。
それでも、今後輩たちに手を差し伸べたいと思うのは、そんな自分が嫌だからだ。
いつも誰かに助けてもらってばかりだから、私だって誰かを助けたい。
いつもだったら、私はこんなきれいごとを言わない。
でも、わたしが完璧にきれいな心を持っていなくても
黒いものとも闘いながら、
それでも懸命に恩に対して誠実に生きようとする、
その姿勢が好きだと言ってくれた人がいたから。
私は、いつもだったらつかわない、「二つの手」をつかうことにした。
そう決めたとき、すこしだけわかったことがある。
私の姿勢が好きだと言ってくれたその人としばらくさよならしなければいけなくて、私はその人のことばの一角ばかりをみつめて、どうしてって動揺していた。
氷山のすべては見渡せない。
でも、ひとには想像力があるから、海の下にあるものを想像することはできる。
いつもその人は、誰かに手を差し伸べていた。
遠くから見ていたとき、その人はひとより多くの手を持っているように見えた。
千手観音のように。
でも、私に差し伸べてくれた手をよく見たら、その人の手は、私と同じ二本の手しかなかった。
いつだって、二本の手をその人は必死に動かして、まるで手が千本あるみたいに振舞っていたんだ。
だけど、必死なことをいつも見せなくて。
そのやさしさが、あたりまえのようになっていた。
その人がnoteから手を引いた理由はいくら考えてもわからない。
でも、noteでこれだけたくさんの人に手を差し伸べてきた人だから、
もしかしたら今の私のように、
画面の手前にいる身近な人に手を差し伸べようとしているのかもしれない。
いつも人に差し伸べてきた手で自分を抱きしめる時間も必要かもしれない。
なにか手を伸ばして、得たいモノがあるのかもしれない。
はじめは、こんなにも突然去るなんてひどいと思ったけれど、
私は、なにもわかっていなかった。
だって、彼はこんなにもたくさんのものを残してくれていたのだから。
私は、醜い感情と向き合う勇気をもらった。
だれかに手を差し伸べる美しさを知った。
ひとりで頑張らなくていい、きっと応援してくれる人が現れると教えてくれた。
応援する人たちを連れてきてくれた。
夢を応援しつづけてくれた。
そして、私の心にぽっかりと穴を残していった。
でも、その穴はいまの私に必要なものなのだと思う。
ドラマ『カルテット』のなかでこんなセリフがあった。
音楽っていうのはドーナツの穴のようなものだ。
何かが欠けているやつが奏でるから、音楽になるんだよね。
私は、この心にあいた穴があるから、きっとこれからも絵が描ける。
彼がこんなにドラマチックに去っていったのは、みんなの心に穴を開けようとしたんじゃないかって、私は想像している。
海の下には、どんな真相が眠っているのかわからないけれど。
いつか彼が真相を明かしてくれる日を待とう。