誰かにとっての居場所になれるように
私は、文章を書いたり、絵を描いたりすることを、仕事にしたい。
最近そう言えるようになった。
でも、それは夢を語っているようで、語っていないような気もする。
それだと、文章を書くことや絵を描くこと自体が夢のように聞こえるが、本当はそれらは手段。
今日は、文章を書く、絵を描くことで、何を成し遂げたいと思っているのかを語ってみたい。
私は、以前、ゼロさんに依頼してプロフィールを書いてもらった。
最近の私のnoteでは、Art saryoやricettaについてほとんど触れていないから、プロフィールのArt saryoやricettaとはなんぞやと思われている方もいらっしゃるかもしれない。
もともと、私は美術史の研究者として、美術作品の面白さを伝えたいと思ってnoteを書き始めた。
「Art saryo」というのは、私がnoteにつくった架空のお店で、美術作品を紹介する「ricetta」(リチェッタ:イタリア語で「レシピ」・「処方箋」の意)という記事を、看板メニューとしていた。
でも、そうした美術に関する記事よりも、私自身について書いたことや、私の家族や友人について書いたエッセイの方がよく読まれた。
私自身も、美術について書くよりも、日常のエッセイを書く方が気楽なので、日常エッセイのほうが多くなり、いまではほとんど日常エッセイしか書いていない。
だから、このプロフィールと、現在の私のnoteの内容は乖離しているのだけど、私はこのプロフィールを使い続けている。
それには理由がある。
このプロフィールを一見すると、私の現在の記事とは異なるように思えるのだが、そこには、私のnoteで目指したい方向性が示されているのだ。
私は、「場所」を作りたい。
というよりも、私は、「場所」になりたいのかもしれない(変な日本語になってしまうけれど)。
いいことがあったんだよ、と報告したくなるような場。
疲れたときに、ふっと立ち寄りたくなる場。
誰かをそっと送り出したり、誰かを温かく迎えたり。
物語に登場するような、そこから物語が生まれるような、そんな場所。
「場所」といっても、物理的な空間がなくてもいい。
心の中にそんな場所が描けたら、それでいいのだ。
私にとって、大好きな物語や、大好きな絵、大好きな人たちが、そんな「場所」だった。
嫌なことがあったときも、その場所で時間を過ごしているうちに、光が差してくるときもあった。
物事の見方が変わったり、嫌なことと立ち向かう勇気をもらったりした。
「逃げ場」でもあり「居場所」でもあった。
私も、誰かにとっての、そんな「場所」になりたい。
それが今の私の夢だ。
まだその夢もふんわりとしているけれど、私が目指すイメージはなんとなく汲んでもらえるのではないだろうか。
ゼロさんは、プロフィールの最後に「いつも誰かにそっと手紙を書くような、そんなnoteでありたいな」と書いてくれた。
私は、この一文が大好きだ。
ゼロさんがそう書いてくれてから、自分のプロフィールを見るたびに、「そうだ、私は手紙を書くように、文章を書いて、絵を描きたいんだ」と気持ちを引き締める。
きっと、その手紙がだれかの心に届いたとき、私の夢が叶うのだと思う。
だから、今日も、私は手紙を書くような気持ちでこのnoteを書いている。
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今日は、#1ヶ月書くチャレンジの「Day28 もしも1つだけ夢が叶うとしたら」というお題に沿って書きました。
この夢は、もうすでに叶っているような気もします。
私の手紙を受けとってくださっている方々がいらっしゃるから。
でも、この夢は、叶ったらそれでおしまい、ではなくて、自分の軸として持っていたいと思うのです。
私は、この夢を叶えつづけていたいです。