安全な場所
満生(みつき)は、安全な場所を求めていた。
満生の半生は薄暗いと行き切ればそうであっただろうし、明るいと言い切れば未来は輝かしいように思われた。理由など些細で、只今は、誰に否定されることも無く、誰に怒られるようなことも無い、どこかこことは違う世界を求めていた。それに入り込むのを許していいと許せるのは、彼の幾ばくかの蔵書、愛用の端末、端末を使う為の機器、そしてかなり厳選された人間であった。彼は一人の時間を大切にする人間だが、誰かと賑やかに過ごすのも楽しむ人間だった。ただ、不意に誰かの悪意で傷つけられやしないかとびくびくして怯える臆病者でもあった。
彼はきっかけという言葉が嫌いだった。よく世間では殺人事件が取り上げられている。よしゃあいいのに、どこの誰が誰を殺して、そしてさもお可哀想にと憐れむような態度で全てを民衆の前に晒すのだ。全てには理由があり、そういった事件になるのもきっかけがあったのだろう。だが最後には殺した方が負けである。マスコミに晒され人生が終わり、警察に捕まる。酷い場合は反省した後でもそこらの雑誌であの加害者の今なんて言って取り上げられることもある。世間の悪意を煮つめたようなものの中でじっと耐えるのは満生にも覚えがあり、そしてそれはその時と同じなのだとどこかで感じていた。満生は良識のある人間だった。けれども、何かきっかけを作ったから迫害されるという、その当たり前に見せかけた加害者側の自己防衛論を死ぬ程嫌っていた。繰り返すが、満生は悪意の中で暮らしていたことがある。何故逃げなかったのか、それは人間として、その年頃として行くのが義務で当たり前だとされた場所で起こったことだったからだ。やめてくれと伝えるうちに感覚が麻痺し、最低だと思いながらもそれに慣れた。慣れていくうちに人間はどこか思考が狂っていく。満生もそうで、しかし幸いだったことに満生は狂ったとしても暴力に訴える人間でなかった。幼少の頃からの教育が利いた。しかし憎悪の炎は限りなく煮えて、彼らと話をした後も、それに関わった人間がもう終わりだと見切りをつけても、二年引きこもっても満生の中でそれに終わりが訪れることは無かった。忘れてしまいたいと願いながら、忘れてしまったら様々なことを忘れ去ってしまうと思っていた。口先の暴力は直接な暴力より簡易的で、そして直接的なものよりは罪悪感のない、一番近くにある手段であること。 誰かの罪を見過ごすということが後に何に繋がるか。 日本人の言う当たり前がいかに愚かか。優しさが如何に自分の為にならないか。そして、一部の話の伝わらない人間というのは、こんなにも愚かなのかと。それらは満生の中に永く燻るであろう自論だと分かっていて、そしてそれは表向きには理解されないことだ。理解されてしまったら人間は様々なことが出来なくなる。今まで世間が当たり前だとのたまい、周りがそうなのだからと自分にも押し付けられた当たり前が出来なくなる。そうなったら日本は回らないとのことだ。全く馬鹿らしい、と言ったら大抵の人間は満生を罵るだろう。満生がもし軽はずみにそれを言える人間で、 そして恥を知れと彼を罵るものがあったのならば、ただ日々頑張る人間を罵ったことだけは謝りたいと思う。しかしそんな狂った社会に投石するのがおかしいことだとは思えなかった。 優しい人間とはひとえに自己犠牲的な人間である。 それは全くの、一番に無知純粋な愚かさで、それは無知蒙昧な悪意の前では簡単に崩れ去ってしまうものだった。そういった人間が死ぬのだ。満生は、過去の己のような人間がその愚かさから抜け出すことが出来なくて苦しむ様を見る度に、自分がいかに腹黒くなったかを思い知った。満生は様々な経験を経て、たとえ己にどんな過失があろうと死ねと言った方が負けなのだと言う持論を持っている。そして換えのない、紛れもない自分が嫌悪するものは大抵碌でもないのだと知っていた。 そしてそれは大抵上手くできない。それが出来る才もなく、果ては努力の才も無く、そしてふざけた達観をしている上であの蒙昧社会の中で生きていけるかと言うのも疑問であった。 蒙昧社会の倫理を大切にする人間ほど満生を酷く嫌うのであった。皆がやっているような毎日の出勤、登校、努力をし、皆より劣らぬようにと比較を続け、劣っているものは蔑まれ、いくら悪口を言ってもいいと一部では言われている。満生は正直に、 とても正直に言うならそんな制度腐ってしまえと思った。クズだけが成り上がる社会ならそんな物は要らぬと思った。これだから優しい人間ほど潰れていき、現代では鬱やら不登校やらとそういったものが増える一方だろうがと思った。思ってばかりだと書いているのは、今現在の満生にそれを豪胆にも本にして売るほどの財力がないからだ。満生は世間の風当たりなど対して気にしない。風当たりが強いほどに、この文章に書かれていることが真実ですと言っているようなものだ。この文章を目立って持ち上げるものは、これを盾にしたい者か、それか満生と同じようにどこかネジの外れた者ばかりだと推測される。とにもかくにも、満生はネジが外れている。そして安全な場所を求めている。まるで棺桶のように静かで安全で誰にも否定されない場所を求め、そして同時に自分の夢が叶う瞬間を想っている。全世界に届くように、今燻っている全てが有意義であったと自分に届くように、大声で何もかもを塗りつぶすように、勝利勝利大勝利であると叫びたい。