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ローカル線の旅

 ピリンピリンピリンピリンピリンピリン
 エコーのかかったようなホイッスルの音にはっとして反射的に列車から駆け下りたが、自分が寝ぼけていたことに気がついたときには、もう、深緑色の車両は動き始めていた。幸いリュックは手にしっかり握られていて、忘れ物はしていない。朽ちかけたコンクリートが周囲の自然と見事に調和しているプラットホームには、「たつのみや」と駅名の書かれたサビの浮いた看板が立っていた。
 最近世間では、休暇は無理にでも消化しなくてはならない、という新しいルールが追加された。働かないで給料が貰えるのだから悪い話ではないのかもしれないが、有給休暇は”あってもない”ようなもの、というちょっと不思議な常識に従って生きてきた私のような古い人間に、急にそんなことを云われても困ってしまうのである。
 子供も成長して自分のスケジュールで忙しいし、妻も自分の仕事を持ったキャリアウーマンだ。なかなか私の都合に合わせては貰えない。結局一人の時間を持て余してしまい、苦し紛れに始めたのがこのローカル線巡りの旅だった。
 初めはテレビの旅番組を真似てさしたる興味もなく始めた事だったが、いざ始めてみると、割引チケットを使えばたいして金も使わずに済むし、昼間から缶ビール片手に車窓を眺めるのも乙なものだ。我ながら良い趣味をみつけたものだと気に入っている。
 C県の海岸沿いを走る小宇羅線は、都心から少し離れた自宅の最寄り駅から、三回乗り換えて二時間半。始発のこうら駅から終点のしまうら駅までは約一時間の行程だ。「たつのみや」はおそらくその真中辺りの駅だろう。時刻表を確かめると次の列車まで一時間以上待たなくてはならない。私は駅の周りを少しぶらぶらすることにした。
 たつのみやは無人駅だった。改札を抜けると、やけに真新しくて周囲から浮いてみえる銀色の電話ボックスの脇に、傾いたポールに支えられた「バス・タクシーのりば」の丸い看板が立っていた。「バス・タクシーのりば」の先には線路を横切る舗装道路が走っていて、線路の向こうは海岸に向かっている。反対側は歩道に沿ったアーケードになっていた。
 アーケードの商店はほとんどシャッターが降りていて、たまにのろのろと走る軽トラックが私を追い越してゆくほかは、ほぼ人の気配がなかった。ときおり開いている商店もあったが、店の中に佇む人影はまるで書き割りの人形のように背景に溶け込んでいた。窓辺で日向ぼっこをしている猫も剥製の置物のようにじっとしている。もしかすると本当によくできた置物だったのかもしれない。この町には、都会で暮らす人々のなくしてしまった、ゆったりとした穏やかな時間が流れているようだった。
 昼にはまだ早かったが、朝早く家を出たのですこし腹が空いていた。どこかで軽く食事でもと考えていると、入口のドアに”モーニングセット”と札の掛かった喫茶店が目に止まった。透明な自動ドアの入り口には”喫茶プリンセス”とロゴが描かれていて、そこから店内を伺おうとすると、ごろんごろん。自動ドアが開いてしまったので、しかたなくそのまま店に入ることにした。
 それほど広くない店内に人影はなく、カウンターの奥にカーテンがあって厨房に継っているようである。「すみませーん」と声を掛けると、カーテンの奥から「はあああああいただいまあああああ」とやけに間延びした返事が返ってきた。
 私はとりあえず窓際のテーブルに座り、テーブルにセットされたメニューを開いた。〈お飲み物〉コーヒー、紅茶、ミルクセーキ、瓶ビール〈軽食〉サンドイッチ、ピラフ、カレーライス〈デザート〉アイスクリーム、ホットケーキ、プリン・ア・ラ・モード。六ページほどのメニューを一通りチェックし終わったころになって、ようやく、真っ赤なセーターを着た元プリンセスといった風情の老女が、水の入ったコップを持って現れた。
「瓶ビールとカレーライス」と注文すると「すこしお時間かかりますけど」と元プリンセスは申し訳無さそうな表情をした。まだ準備が整っていなかったのかもしれないがどうせ時間潰しなのだ。「構いませんよ」と私は答えた。
「カレエエエエエ一丁おおおおおとおビーーーーールウウウウウ」
元プリンセスはカーテンの奥にそう声を掛け、自分もその中に入っていった。
 窓からは午前中の日差しが差し込んでいて、テーブルの上を窓枠の影が斜めに横切っている。どことなく見覚えがあるような椅子のデザインや座席を仕切る目隠しの細工は、私が子供だった時代に流行っていたものだろう。カーペットの模様もどことなく古めかしい。窓の外を軽トラックがのろのろと走って行った。この町には軽トラックしか走っていないのだろうか。
「すみませーん。ビール先でお願いしまーす」いつまで経ってもビールが運ばれてくる気配がしないので、しびれを切らしてカーテンの奥に声を掛けると「はあああああいただいまあああああ」カーテンの奥のさらに遠くの方から、山彦のような返事が返ってきた。
 結局、元プリンセスがカレーライスを運んできたのは、さらにもう一本追加したビールを飲み干したあとだった。さすがにすこし時間が心配になって壁に掛かった時計を見ると、さっき私が駅に着いてからあまり時間が経っていない。念の為に腕時計も確認したが時計の故障ではないようだった。
 なんだか狐につままれたような気がしたが、なにはともあれカレーライスを食べることにした。随分待たされたせいで(そのような気がしただけかもしれないが)さっきから腹がぐうぐう鳴り通しだったのである。銀色のポットに入ったカレーと、銀色の皿に盛られたライスが別々に運ばれてきたカレーライスは、喫茶店のカレーライスとは思えないほどの美味しさだった。
 カレーライスを食べ終わって駅に戻ってもたいして時間は経っていなかったので、今度は線路を渡って海岸へ行ってみることにした。海岸へ続く一本道はゆるい下り坂になっていて、海に近づくにしたがって潮の香りが密度を増してゆく。防砂林の松林を抜けると波の音が大きくなり、目の前に水平線が広がった。
 空の色は濃く、形の良い雲が浮かんでいる。沖の方にタンカーのような大型船が何艘か浮かんでいて、水平線に沿って海鳥がゆったりと羽ばたいていた。
 海岸に沿って暫く歩くと、遠くの岬に灯台が姿を現した。取り敢えずその灯台を目指して歩いてみたが、いくら歩いても灯台は近づいて来ない。というより、寧ろ遠ざかっているようにさえ見えた。どういう目の錯覚か、歩けば歩くほど岬が伸びてゆくように見えるのだ。
 かなりの距離を歩いたはずだが、とうとう私はあきらめて砂浜に腰を降ろした。沖の方にはまだタンカーのような大型船が浮かんでいる。海鳥もまだ水平線に沿って羽ばたいている最中だった。いや、あれはさっきの海鳥とは別の海鳥に違いない。随分ゆっくり飛んでいる様に見えるのは海の広さのせいだろう。遠近法だ。打ち寄せる波がなんだかぬるぬるしてアメーバのように見えるのは、、、、きっとそういう水質なんだろう。
 どぶうーん。どぶうーん。ゆったりと打ち寄せる波の音を聞いているうちに、私はなんだか眠たくなってしまった。
 ピリンピリンピリンピリンピリンピリン
 エコーの掛かったようなホイッスルが鳴り止むと、ゆっくりと深緑色の列車は動き始めた。
長い待ち時間だった。体感的には一日、いや、一週間くらいは経ったような気がする。何度も腹が空いて、その度に喫茶プリンセスでカレーライスを食べた。それだけ食べたのに今でもまだすこし空腹を感じているくらいだ。若干痩せたような感じさえする。
 ようやく自宅に帰り着いた頃には陽もとっぷりと暮れていた。
「ただいま」腹ペコでたどり着いた玄関で靴を脱いでいると、背後に妻の気配がした。
「あの。どちらさまですか」
「なにふざけてるんだよ」振り返ると、妻はまるで死人を見るような目で私を見ている。それに美容院にでも行ったのだろうか、なんだかいつもと雰囲気も違う。少し若返ったような。
「どうかしたの」廊下の奥から義母が姿を見せた。しかし義母は三年前に他界したはずではなかったか。
「あなた。あなたなの?」義母は私の姿を見るなりいった。いや。それは義母ではなく歳をとった妻だった。
 信じられない話だが、私は十年以上ものあいだ家を留守にしていたのである。その間、妻と娘は私が死んだものとして暮らしていたらしい。私が妻と見間違えたのは、結婚して母親になった娘の姿だった。
 私はお爺さんになっていたのだ。
(第13回光文社ショートショート公募/優秀作品選出)

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