見出し画像

ロンドン大火にまつわる場所を子どもとめぐってみた(セントポール〜モニュメント)

イギリスと日本の教育はいろいろ違うけれど、中でも歴史の学び方はかなり違っていて驚いた。日本では小学校の高学年で日本の歴史を縄文時代から通史で学ぶけれど、イギリスでは低学年のうちから歴史上の大事件を個々に学んでいくらしい。歴史は先史時代から現代までを線で学ぶものと思っていたけれど、点で学んで点と点をつなげていく学び方もあるのだと知った。

Year2の息子は学校でイギリスの歴史を教わっている。前タームはBattle of Hastings(1066年ヘイスティングスの戦い)を学び、最近はGreat Fire of London(1666年のロンドン大火)について勉強しているそうだ。ヘイスティングスの戦いが重要なのは分かるとして、300年以上前に起きた火事のことを低学年の子どもたちが学ぶのはなぜだろう?

話は変わって、ロンドン大火の約10年前、1657年の1月に江戸でも大きな火事が起こったことをご存じだろうか?「明暦の大火」と呼ばれるこの火事では、江戸の街の大半が焼き尽くされ、何万人もの人が亡くなったという。日本史上最悪の火事だが、小学校で習った記憶はない。高校で日本史を選択しない限り、学校で教わることはないかもしれない。意外にも、ロンドン大火で亡くなった人の数は数名(10名未満)だそうだ。明暦の大火の1/10000以下。それでも、イギリスの小学生はロンドン大火を学ぶし、イギリス人なら誰もが知っている。

さて、前置きが長くなったが、学校でロンドン大火について学んだ息子は、強く興味を持ったようだ。鉄は熱いうちに…ということで、息子の興味が醒めないうちにロンドン大火にまつわる場所を訪れようと思い立ち、去る1月18日に子どもたちを連れで街歩きをしてきた。

正面じゃなくて後ろ(北東)からの図

まず訪れたのは、セントポール大聖堂。ロンドンのランドマークのひとつで以前から行ってみたいと思っていたけれど、入場料が高い(大人£26)のでなかなか敷居が高くて行けていなかった。(アートパス会員だと入場料が半額になることを最近知った。)

セントポールとロンドン大火がどう関係するかと言うと、火事によって旧セントポール大聖堂が焼失し、現在のセントポールは火災後に再建されたものなのだ。旧セントポールは、ありふれた(と言ったら失礼だが)ゴシック様式の大聖堂だったが、新セントポールは巨大な円形ドームと2つの鐘楼を持つ革新的な大聖堂で、いわば復興の象徴的な存在だ。設計したのはイギリスでもっとも有名な建築家、クリストファー・レン。セントポール以外にも多くの建築に携わり、ロンドンの復興に尽力した立役者だが、建設に35年かかった大聖堂の完成を待たずに亡くなってしまった。

セントポールがどこにあるかも知らなかった渡英直後の頃、テートモダンから臨むセントポールを初めて見たときにその壮麗な美しさに息を呑んだが、外観だけでなく内部もとても美しかった。

入口(身廊)から祭壇方面を拝む
圧巻の大ドームを下から拝む
祭壇のステンドグラスも美しい

地上階部分をひとしきり回ったあとで、螺旋階段でドーム部分まで登った。いつ終わるとも分からない階段をひたすら上り続け、ようやく「ささやきの回廊」と呼ばれる、ドームの内側下部をぐるりと一周するバルコニーに到着した。名前の由来は壁に秘密がある。壁に向かって声を発すると、数十メートル離れている反対側に声が届くのだ。すぐ近くで話しているのかと錯覚するほどクリアに聞こえたので、知っていたのに驚いた。子どもたちももちろん驚いて喜んでいた。

さらに登ると、建物の外側のテラス(ストーンギャラリー)にも出ることができる。あいにくの曇天だったがロンドンの景色を一望できるビュースポットだ。晴れた日ならさぞかし気持ちがいいだろう。(この日は寒い上に天気も悪くて残念すぎた。)ここよりも少し低い位置にある2つの鐘楼から鐘の音が大音量で聞こえてくる。

テートモダンとミレニアムブリッジを臨む
ストーンギャラリーから臨む鐘楼

もっと上まで登れるらしいので、行けるところまで行ってみることにした。ここから先はこんな感じの螺旋階段を上る。

高所恐怖症には結構怖い

下を見ずに心を無にして上り続け、ようやくゴールデンギャラリーに到着。鐘楼の位置がまた一段低くなっている。ここまでなんと528段!4歳の娘も登りきることができ、かなりの達成感を味わうことができたようだ。

ゴールデンギャラリーから臨む鐘楼

ちなみに、映画「ハリー・ポッター」にも登場する幾何学階段(ホグワーツの階段)には、ガイドツアーに参加しないと立ち入ることができないそう。残念。また話が脱線するが、訪れた翌日にたまたま子どもたちと観た「パディントン2」にもセントポールが出てきた!地上階もささやきの回廊も、訪れた場所がいっぱい登場して盛り上がった。

閑話休題。階段を下りて再び地上階に戻り、さらに下りて地下聖堂へ。ここにはウォータールー(ワーテルロー)の戦いでナポレオン軍を破った初代ウェリントン公や、トラファルガーの海戦でこれまたナポレオン軍を破ったネルソン提督など錚々たる偉人たちのお墓がある。歩き疲れたチビたちと夫が休憩する間に墓を見て回り、セントポールを後にした。

ウェリントン公のお墓

ここからは街歩き。スミスフィールド方面へしばらく北上したところで金色の小便小僧みたいな子どもの像を発見。刻まれた文字を読んでみたら、なんとロンドン大火の火事が鎮火した場所だった。(「大火の火事が鎮火」って多分文法的に間違ってる笑)たまたま通った道でこれを見つけちゃうなんて、なかなかの強運だ。出火元はプディング・レーン(Pudding Lane)で、鎮火場所はパイ・コーナー(Pye Corner)ってことで、「プリンとかパイとか、おまえらの暴食(Gluttony)が禍の元に違いない、戒めるべし!」というわけでこのぽっちゃり体型の子どもの像が建てられた模様。Gluttonyは七つの大罪のひとつ。こうやって罪と結びつけるなんてキリスト教的だなぁと思ったけど、日本人も「バチがあたる」とか言ったりするし、似たようなものかも。「明暦の大火」が別名「振袖火事」と呼ばれるのは、呪われた振袖をお寺で焼き払おうとして火事が起こったという逸話によるもの。(恐らく史実ではない。)何らかのストーリーを持たせたがるは人類に共通する特徴なのかもしれない。

ゴールデンボーイと呼ばれているそう

ここで鎮火したということは、この先は無事だったというわけで、焼けずに残ったロンドン最古の教会、聖バーソロミュー教会に立ち寄った。この教会はゴシックよりもっと前のノルマン様式の教会で、とても古くて趣きがある。数々の映画のロケ地としても使われてきたらしい。せっかく焼けずに残ったのに身廊部分が現存していないのは、ヘンリー8世の宗教改革で破壊されてしまったからだと思われる。

征服王ウィリアムの孫の時代(12世紀前半)に建てられたのだそう

そんなヘンリー8世(通称ヘンパチ)の像が教会の近くの聖バーソロミュー病院の一角(?)にあった。屋外に設置された唯一のヘンパチ像だそう。むしろ一体あることが驚き。笑

なんでこんなところにヘンパチ?

せっかく近くまで来たので、ロンドン大火は関係ないけれどバービカンセンターにも休憩がてら立ち寄ることにした。バービカンは初めて訪れたときに不思議と郷愁を覚えた場所だ。かつて住んでいたこともある日本のとある場所に似ている気がするのだ。ちょっとデストピア感があるところも異世界に来た感じがする。

郷愁を誘うブルータリズム炸裂のアパートメント

バービカンに向かう道中のトンネルでバンクシーのバスキアコラボ壁画もはじめて見ることができた。

次女、力尽きる(人を入れずに撮るのをしばしば忘れる)

バービカンを出たあとは、南下してまた大火の被災エリアに入り、ギルドホールへ。旧市庁舎(厳密に言うと、今でも名誉職であるLord Mayor of Londonの拠点だそう)のギルドホールも一部が被災したらしい。今から30年くらい前にこの建物の地下から古代ローマ時代(ロンドンがロンディニウムと呼ばれていた時代)のコロッセオ跡が発掘されたんだって、という話をしたら意外にも夫や息子が食いついてきたので見学することに。古代ローマの遺跡だなんて確かにロマンがあるよね。「もうローマ行かなくていいじゃん!」と軽口をたたく彼らを見て、期待しすぎているのでは?と少し不安になる。地下に埋まっていた遺跡なので、壁だか土台だかの一部が残るのみなのだ。だが、「お〜、2000年前の遺跡かぁ〜!」と喜んでいた。(でもローマには行かなければいけない。)

ハイテク感溢れる展示

ギルドホールにはギャラリーも併設されているが、時間がないので今回はスキップした。ギルドホールを出てモニュメントに向かって歩いていると、イングランド銀行の向かいの建物にプレートを発見。かつてこの場所にあった郵便局がやはり1666年の火事で焼けてしまったことが分かる。

世界で初めてポストマーク(消印)が導入されたのがイギリスだったことを知る

ついにモニュメントに到着!ロンドン大火からの復興を記念して建てられた高さ62メートルの記念碑だ。この塔を東の方角に倒した先に出火元のベーカリーがあったそうだ。入場料を払えばモニュメントに登ることもできるが、セントポールですでに体力を消耗していたため今回は見送り。登ったら証明書がもらえるらしい。まぁ要らないけど、登ってみたかったな。

ビルに囲まれた変な場所にあるけど、昔はロンドン橋につながる広場だったらしい
右手の鬘と王冠を被った人が当時の王様チャールズ2世

ロンドンの街は、ロンドン大火を境に一気に変化したように思われる。燃えやすい木造建築が禁止されて石やレンガで建てられるようになり、密集して不衛生だった街は新たな都市計画によって大幅に改善した。直前までペストが大流行していたそうだが、火で焼き尽くされたことで収束したとも言われている。また、火災保険の誕生や復興のための大量の資金投入などで経済的にも大きく発展したという。産業革命はまだ少し先だが、イギリスは早くも近代化の第一歩を踏み出しているように思う。復興のシンボルであるセントポール大聖堂が古臭さを感じさせることなく今もなお力強く存在していることも、当時と現代が一続きのように感じられる理由のひとつかもしれない。

一方で、明暦の大火が起こったとき、日本はまだ江戸時代初期(4代目将軍家綱の治世)だった。開国は約200年も先の話だし、まだまだ近代化の道のりは遠いように思う。もちろん、江戸も大火の後の再開発で大幅に防災面が見直されたようだけれど、再建された江戸城はその後も何度も焼失と再建を繰り返しているし、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように火事は日常茶飯事だったようで、どうしても明暦の大火のインパクトは薄くなってしまう。日本は自然災害も多いしね。社会や経済構造の変化にしても明治維新に比べるとインパクトがなさすぎる。だから、わたしたちは明暦の大火をよく知らないのだ。

奇しくもこの日、1月18日は明暦の大火が起こった日だった。そのことを知ったとき、ロンドン大火から導かれるように日本の歴史に思いを馳せたのは運命のイタズラかもしれない、と思ってしまったのだった。(ストーリー好きの人がここにもいたよ。)

いいなと思ったら応援しよう!