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八月のお盆、セミの声。
八月のお盆に少しだけ関東の実家に帰った。今は帰り道、四国へ向かう格安飛行機の中でこれを書いている。
私の実家はいわゆるゴミ屋敷の一歩手前。あんなにカビ臭く、みすぼらしく汚いと思っていた実家は、やっぱり自分の家だった。すごくすごく安心した。
思春期を過ごした自室、布団の中に入った時の安心感が半端なくて、滞在3日のうちほぼ布団の中でスマホをしたり惰眠を貪った。自室が一番落ち着くんだと実感した。
数ヶ月前に住み始めた四国の夏は、ひたすらうるさいクマゼミの声が反響して不快だった。クマゼミは西日本に生息しており、帰省先の関東ではまったく聞こえない。心地よいアブラゼミとミンミンゼミだけの声だった。
実家の冷蔵庫を開ければ、賞味期限切れの食品が奥にはち切れんばかりに入っていた。野菜室は底が腐った青野菜でヘドロになっている。
でも昨晩の残りものや、まだかろうじて消費期限が切れていない豊富な食材を取り出し、なんとか食事をまかなえる。
食費もかからないので、めんどくさくて嫌だった実家がこんなにも恵まれていたのだと知った。
私がこの家を出て行こうと決めた日、おばあちゃんに作ったご飯を捨てられた。
仕事から帰ってきて疲れ果てて、それでも頑張って作ったけど、おばあちゃんに捨てられた。「どうしてさっき作ったのに、捨てたの?」と聞くと「嘘だよ。3日前のでもう食べられないやつだよ」と真顔で言った。私は思考を放棄した。
おばあちゃんは私をここまで育ててくれた。おばあちゃんは雪国にある、床暖が暖かくて庭が素敵だった自分の家を売った。私と一緒に暮らすために全てを投げ出して、雪国から関東に来てくれた。
当時ランドセルを背負いながらおばあちゃんと毎朝犬の散歩をしながら学校まで歩くのが好きだった。
しっかり者で綺麗好きでご飯が美味しいおばあちゃん。だけどそれは小学生の話。
成人した私の前にいるおばあちゃんが着ているセーターはボロボロでこぼした食べ物のシミだらけ、ズボンもおしっこで汚れていた。オムツを頑張って履かせても脱いでしまう。作ったご飯を食べたくないと言われる。買ってきた食材を目を離した瞬間に、全て鍋に放り込み真っ黒に焦がしたりもした。
今夜食べるものがなくなって困った日もあった。
口論も絶えず、髪を掴まれて殴り合ったりもした。
話が通じて欲しいのに、何も伝わらない。もう昔のおばあちゃんじゃない。認知症は人の精神を殺す。もう楽になったらいい。父も私も疲れた。こんなに憎み合うならいっそのこと、思わず悲鳴のように「早く死ね!」と叫んでいた。
あんなに大好きだったおばあちゃん。どうして。
毎日、私は小学校から帰ってきて、今日はこんな事があったと話せば楽しそうに頷いてくれて、美味しい晩ごはんの匂いを漂わせながら、台所に立っていたおばあちゃん。お花柄の綺麗なエプロンをしていたおばあちゃん。大好きだったおばあちゃんに、酷い事を言ってしまい、涙が止まらなかった。
私は介護から逃げるように、四国へ転勤になった夫の家に引っ越した。
そして結婚した年のお盆、実家に帰ってきた。
3日過ごして感じたのは、四国に戻るのが嫌だった。遠距離時代を思い出して自分を奮い立たせた。四国の夫の家はカビの匂いがしない、ダニもウジもいない、床を裸足で歩いても汚れない家、居心地が良かった。
四国へ遊びに行き、満喫して実家に帰る日に裸足の足裏を見ながら、帰れば裸足で歩ける衛生環境の家ではない事を思い知らされ、ワンワンと大声で泣いた日を思い出した。でもあれは帰る家、おちつく慣れた環境があることへの甘えだった。慣れた場所、土地で過ごすことが一番安心するのだと知った。
泣きながら退職日を迎えた元の会社が懐かしい。心が弱っていて、何度も胃腸炎になったし、母親が死んだりと色々と疲弊して、つい恵まれた職場を辞めてしまった。もしかしたら、もしかしたら続けていれば今頃は…と考えてしまう。
遠距離を続けられる根性が無かった。でも今は、何をしてもダメな人間なんだと自分を責める。どこに居てもどんな状況でも泣き言。自分の気持ちに向き合えない。悲しくて寂しい。状況に不満しか言わない。自分で決めた事なのに、環境が変われば今までの自分と違う自分のようだった。夫は出張が多く、毎晩独りでぽっかり穴が空いたような気持ちで酒を飲みながらぼぉっとネットの動画を見るだけの夜が耐えられなかった。本当に帰りたくない。四国に戻りたくない。
仕事の事をかんがえると憂鬱だった。
私は学生時代の就活で30社落ちた。「協調性がなく、こだわりが強い」とお祈りメールを送られた事もある。
最後にたどり着いたのが非正規雇用の事務の仕事だった。とても居心地がよく、やりがいのある職場だった。でも四国へ、実家から逃げるため退職してしまった。
デザインのスキルを身につければ今後は転勤族の夫について行ける、どこでも転職出来ると思っていた。
四国の求人でデザイン業務を募集していたので入った会社は、まったくデザインをさせてくれず単調な作業がメインだった。話が違う。田舎の小さい会社だった。社長が経理の女を孕ませて経営が回らなくなったり、上司は身内経営、ブラックで一斉退職、学生ノリのような会社だった。本当に苦しい。もう逃げてしまいたかった。
お盆に帰省した初日は父に、私が祖母の面倒を見るので、たまには居酒屋で羽を伸ばしてきたらどうかと提案した。父は持病で失明しているのに、なんとか祖母の介護をやっている。私は父に祖母の介護を押し付ける形で家を出てしまった罪悪感があった。
ここまで育ててもらったのに、身体障害者である父も要介護の祖母からも逃げた私は、本当に誰よりも最低だった。
父が出かけたその間に散らかった母親の遺品の整理をした。
昨年に末期癌で死んだ母は、殺人未遂で服役していた刑務所から骨になって帰ってきた。その時に遺品も引き取った。
ハローワークの求人票が何枚も出て来た。
きっと母は事件を起こす前には、少しでも真っ当に生きようと求職活動に苦戦していた。そんな姿が容易く想像できた。藁半紙に『求人、工場勤務、ライン製造、募集年齢は30歳まで。』と書いてあった。
30歳までの部分に、力無く震えた筆跡の丸が、鉛筆で囲まれていた。母の描いた丸印だった。
30歳まで。30歳以上は対象外。
じゃあ、30過ぎたスキルのない女は、どうすればいい?どうやって仕事を探したらいい?思わず自分の事のように感じてしまい、手が震えた。母が刑務所の中で書いたノートをペラペラとめくった。殴り書きで何が書いてあるのかわからなかったが一生懸命、辞書で引いたような言葉だらけで外国語学の勉強をしているのだと思った。母は勉強することが好きだった性格を思い出した。3カ国以上の言葉を話せるし、昔の通訳の仕事を誇りに思っていた。こんなに努力できて勉学熱心なのに、なぜか持っている求人票は靴の製造業ばかり、パン工場のラインばかりだった。自分の語学スキルは、まったく活かせていなかった。
弁護士への手紙も何通もあった。国選弁護士が、言葉がよくないが、ロクでも無かったから求刑が酷い内容だったのは知って居た。
母は加害者だが、事件を起こす前まで被害者にたくさんの理不尽な嫌がらせをされた。判決内容には情状酌量の余地は無かった。
手紙を見ると一生懸命に母は諦めず、私選弁護士を探している様子が伺えた。だが返事はことごとく断られている手紙ばかりだった。なかでは丁寧に断っている弁護士もいたが、母の長文に対して、たった一文のロボットのような人の血がかよっていないような冷たい文章もあった。見ているのが耐えられず、処分する仕分けダンボールへ投げ入れた。
父が母に宛てた手紙も入っていた。昨年、亡くなる前に私と父で面会に行った後に、書いた手紙だった。私のことが書いてあった。『今、お前の娘はアルバイトだが会社で勤めており、商品の色に関する業務が楽しいと言っている。自分の考えを正しく持って生きている。いつかは絵の仕事をしたいと言っている。』といったような事だった。
絵の仕事を出来るかと言えばもう出来ない、諦めている。
絵の仕事をすることが幸せなのかわからない。
私は小さい頃から絵を描くのが好きだったが、描く事より、描いた絵を褒められるから好きだった。私にとっての価値は、ただそれだけだった。だから画力は、本当に描くのが好きな人に比べたら伸びなかった。だんだん、絵を描くのがくるしくなっていった。
とにかく私にとっての幸せがわからない。昔は自己表現することが人生で一番素晴らしいと思っていた。でもそれがどんなに苦痛でもどんなに大きな代償を払ってさえも、得られるものは無かったりする。本当に大きな賭けだった。作品のために魂、自分の全てをかける。そんなことはできなかった。疲れた。人生に疲れた。
自己表現に明け暮れていた時、劣等感を隠すために自己愛と虚栄心で膨れ上がった愚かな私は自らを超越した人間だと錯覚していた。いわゆる俗物と見下していた人間たちがいた。スーパーで野菜が10円安いことに一喜一憂し、子供や他人の幸せを自分の幸せように重ねたり、小さな幸せをコツコツと生活の中で積み上げるのが一般人で、大衆に迎合した俗物だと思っていた。
突然、そういうものになりたくなった。そういう、小さな事を積み上げる真面目な人間になりたかった。
なんの刺激もない日常に埋没したかった。
だから入籍したいと思った。でもそれも賭けであるかもしれない。逃げでもあった。
人は普通、ゼロの状態から『結婚したい』からするのに、私は全てから逃げたくて、マイナスの状態を変えたくて結婚に幻想を抱いてしまった。こうなった場合、期待値が高まった偶像と現実に殴られてしまうので、人間は傷つくだけである。
話は戻り、父が母に宛てた手紙には、『当時の自分は、もう少しだけお前と離婚することを考えなおし、修復を見直す気力があれば…』と悔やみが書いてあった。
母はこの時は既に末期癌だが、治療を全て拒否していた。実質、本人が望む緩やかな自殺だった。
母は私が物心ついた頃から統合失調症だった。母の妄想と幻覚と暴力に私と父は疲弊し、幼い私は父に離婚を頼んだ。母を追い出して、優しい祖母と暮らしたかった。
母は、父と私から住む家を追い出された。空いた穴には、祖母が充填された。
母は頼れる人も居なく、全てに絶望し事件を起こした。私達が間接的に母を殺したのだ。
八月のお盆、私は24歳の誕生日だった。
居酒屋から帰ってきた父がお祝いをしてくれた。
お祝いの席なのに、なぜか父と喧嘩になった。
憔悴した私の言動が、母親に似ていたようだ。
父は酔っ払いながら言った。
「お前のその言動、誰かとそっくりだ。そうやって酷い言葉や酷い態度でいることは、日頃から夫くんへやっているという事だな?堪えていない様に今は見えるが、あと何年か経った時、仕事で彼が辛い時期に家に帰ってお前がいつまでも甘えた態度で暴言や暴動を繰り返すといつか絶対に亀裂が入る」
それはつまり、いずれ私達夫婦も、父母のような末路を辿るということだろうか?
私は母という家族から受けた傷を癒そうと、同じことを自分の家族に、夫に再現してしまうという事。
暴言に疲弊した夫は、あの時の父と同じで、私は夫から家を追い出されるという事で、1人で生きていくために求職活動をするということ。
そして私はいつか手にする。母の遺品にあった、ハローワークの求人票『対象年齢、30歳まで』 の文字を。
30歳をすぎて路頭に迷う?私はそうならない努力をいま一生懸命に積み重ねているつもりだった。直したかった。母の様な人間になってはいけないと日々もがいていた。でも、いつのまにか母のような振る舞いを、喋り方を、怒鳴り方を、責め方殴り方泣き方叫び方憎み方、同じことを私はしている。
思い出す。私が育った家庭で受けた傷、統合失調症の妄想に付き合わされ、嘘の証言や妄想に添った虚言を要求された事を。母の妄想の中で、父と祖母が近親相姦していた事を目撃した証言を要求され、近所の不審者に嫌がらせをされたと言わされ、少しでも妄想にそぐわなければ(現実、事実の事を言えば)母から毎日繰り返される往復ビンタ、玄関から裸足で外に追い出される、大切に育てていたクワガタを目の前でゴミ箱に投げ捨てられる。私は本当の事を言ってもその都度殴られるし大切なものを捨てられるで、嘘の証言を泣きながら頭の中で作話するしかなかった。妄想に応じるしかなかった。
行きたくない海外に無理やり連れて行かれたり、私が友達と約束したはずの帰国の日になっても、日本に返してくれなかった事もあった。もううんざりだと思っていた。
子供ながらに一生懸命母を愛した事もあった。でも歳をとるにつれて母との離婚を懇願するようになり、第二次性徴期の私は、すでに心は親から離れようと自我を持っていた。母に強く言い放った。
「もう、この家に帰ってこないで」
その時の母の、血の気が引いた顔を今でも忘れない。
そして今、母は骨になって私の元へ帰ってきた。
大人になって、これから私が新しく築いた家庭で、当時の母と同じことをするかもしれない恐怖。
子供がいたら、きっと私と同じ目に合わせてしまうかもしれない。だから、産んではいけない。
私が産まれた時、母は愛してくれたと同時にきっと苦しかったと思う。辛かったと思う。産まなければ、病気も悪化しなかったかもしれない。
私が生まれてこなければ、父も母も離婚せずに済んだのかもしれない。
私が生まれてこなければ、母は冷たい檻の中で、死を選ばずに済んだかもしれない。
すべてかもしれないの話なので、言ってもしょうがない。
母の様にならないための努力が足りていない。もがいてパニックになっているだけで、何も改善していなかった。
医者や薬に頼るようになったのに、変化を感じられなかった。
でも、つらい四国での生活を耐えるしかない。少しの幸せもある。ご飯を作って食べることが幸せだと思った。穏やかな日常を、自分で築いた家庭で持続させて行きたかった。仕事もなんとか続けていくしかない。
そうして耐えぬけば、いつか私も求人票の『対象年齢30歳まで』に丸をつける事は無いと信じている。
そこに鉛筆で丸をつけていた母のその時の心情を私は知りたくない。
ここまで書き終えて、飛行機は着陸体制に入った。
四国の空港に着き、バスに揺られて、裸足で歩いても足が汚れない家に帰る。
夜なのに、木々からは馴染みのないクマゼミの声がうるさかった。