【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。➓
あいつの死に顔に会うことを、僕は許されなかった。だから僕はあいつの「死」を確認していない。僕は何も知らないのだ。それでも僕は見えない何かに思い切りぶつかって、どこかに怪我をした。
あいつの死をどうやって受け入れろっていうんだよ。心のなかでそう叫んでいたら五年が経っていた。霧の中で見失った十花が、いつか帰ってくる予感だけが時々虚しくも起きて、そして我に返って、それを繰り返して五年が経った。怪我がまだ痛むんだ。誰かにそう打ち明けようか。でもその怪我はどこにある?そう何度も自分とだけ話し合って、五年が過ぎていたのだ。
僕はどうやって決着をつければいいのか。
十花とまともな会話をしたその数週間後、僕と美智は台湾の公演に旅立った。滞在中、あと数日の舞台を残していたある夜、僕と美智は常盤に呼ばれた。僕たちの知らないあいだに警察から一本の電話が入っていた。十花が電車に飛び込んだと、常盤がそう言った。十花の前ではいつも落ち着きを保っていた美智は泣き、全身でその事実を拒否した。「だからここに来たくなかったのに」と、ずっと予感していたようでもあった。美智は最近祖母を亡くしたこともあって、代役の起用が許されて帰国し、飛び込んだのが十花であることを確認した。いつも来ていた服から、持ち物から、そして左手の指の形から、十花だとわかった。右手の形はなかった。美智が渡航前に十花の右手の薬指に着けてあげた指輪も見つからなかった。
僕も帰国を願い出たが、それは許されなかった。
帰らせてくれと、常盤に食い下がった。常盤は一貫して許さなかった。今帰国してどうする。多くの客をがっかりさせる。多くのダンサーに迷惑をかける。お前の役だけは代役にはやらせない。この公演が成功したらお前はもっとチャンスが広がる。こんなことでふいにするな。こんなことで?もういっぺん言ってみろ———。
拳に抑えきれないほどの力が入って、そのまま常盤を殴った。常盤にあんな態度をとったのは、後にも先にもそれだけだった。まるで常盤に十花を殺されたかのような気分になった。
この人のせいじゃない。けれどそう思ってしまったらやりきれない。常盤に殴り返された。僕も殴り返した。お互いしばらくそうしていた。
やがて僕は常盤を殴りながら泣き始めた。すると常盤も、一緒に泣いてくれた。
僕を別格に扱い、こんなことでと言った常盤だったが、その時は商品を傷つけまいとする配慮など少しもなく、容赦せず殴ってきた。僕が気が済むまで殴り返せるように。そうすることで、友人の死の現場にかけつけることのできなかった僕が、十花の死を確かめられるように。これからやってくる、限りなく現実感の薄れた時間のなかで、常盤に殴られた痛みだけが、僕を呼び覚ましてくれるように。
疲れ果てて床に座り込むと、常盤も床にしゃがみ込み、僕の両肩を掴んだ。常盤の顔のいたるところが赤く腫れて、鼻から出血していた。僕も同じ顔をしているのだろう。顔面の皮膚の感覚がおかしかった。口の中に血の味を感じた。僕は言った。もっと殴ってくれよ。あいつはこんなもんじゃないんだろう?あいつがどれだけ苦しかったか、どれだけ死にたかったのか、俺に教えてくれよ。誰か教えてくれよ。
常盤は、そのとき初めて教えてくれた。
———十花の入団のオーディションのとき、俺は十花に聞いてみた。ダンス歴短いねって。あいつはこう言ったんだよ。「俺はもともと踊ってはいませんでした。心底楽しそうに踊る人を見るまでは。それが俺のこれまでの人生だった。だからこれから楽しく踊りたいんです。それが俺のこれからの人生です」と。だから採用したんだ。踊ることと、生きることをあいつは重ねていたからだ。そしてお前の隣に付けた。ここなら、きっと生きてくれると思ったからだ。わかるか?死にたかったんじゃない。あいつがどれだけ、生きたかったか。
楽しいことなど知らなかった十花が、楽しそうに生きる人間を見つけた。ストリートで踊っていたタップダンサーのことなのだろう。それで自分も、彼のように楽しく生きてみようと思ったのだ。十花はずっと生きる意味を探していた。今の僕にはそれがよく分かった。でも先輩は海外に旅立った。十花はタップへの道がとぎれても、なんでもいいから踊りつづけようとしていたのだ。拍動をやめようとする心臓を動かすように。そして僕と出会ってくれた。
僕は団員の誰よりもバレエ歴が長かった。中学で部活を始めたときも、高校受験のときも、僕はバレエをやめなかった。踊ることが好きだったから。だから十花と出会う運命を、僕はずっと昔に勝ち取っていた。
もう一度、僕は声をあげて泣いた。
常盤は僕を抱きしめて、肩を叩いてくれた。大きな手と力強い腕を感じた。
——ひどい顔だな、日下部。俺のせいだ。なんとしてでもあいつをここに一緒に連れてくるべきだった。本当に申し訳ない、日下部。
血と涙に濡れた、悲しくも穏やかな顔だった。常盤は僕に頭を下げた。僕の方こそ、すみません、すみません、すみません。それでも涙は止まらなかった。
——日下部、明日も私と一緒に舞台に立ってくれないか。
僕の心の怪我の全貌と、その長い夜を生き延びた記憶を、僕は初めて人に話した。
店員はしっかりとこちらを見て聞いていた。涙ぐんでいるように見えたが、それはさすがに気のせいだったかもしれない。
「すみません。なんと言っていいか。膨大な三年間と、五年でしたね。とても心が揺り動かされて、言葉が見つかりません」
店員はたどたどしく言って、ずっと僕とほぼ合わせていた呼吸を整えようとするだけだった。なんの言葉も選ばないことにした、この男の誠実さが嬉しかった。
「こちらこそ、聞いてくださってありがとう。なんだろう、久しぶりに記憶を引っ張り出して、心がざわつくような、でも、もうすぐ落ち着く気がする」
「思い出したくない話だったかも知れません。でもあなたを支えてくれる人が、身近にいるんですね」
「ええ、感謝してるんです。僕はこんなに偉大な常盤を到底倒せないよ。でもね、」
そう言って僕は自分の鼻を指差した。ええ、と店員が真顔で身を乗り出す。
「鼻、曲がってるの知ってる?常盤の鼻」
「鼻ですか?曲がっていましたっけ?」
僕はスマートフォンから常盤の画像を見せた。
「ああ、そう言われれば」
と店員。
「これさ、僕があのときやっちゃったんだよね」
「え、え?」
あの日常盤の鼻は僕が殴ったことによって骨折していた。それでも彼は痛みを堪えて、次の日の舞台のフィナーレに立ってくれていたのだ。当時僕はそのことに、まったく気がついていなかった。
店員は堪えきれずフフフフっと無声音の笑い声を漏らし、眉毛を下げた。