【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❾
十花はいつ死を決めたのだろうか。美智の祖母が死んだことを、美智から知らされたときか。葬儀の最後の別れのときか。
もちろん美智の悲しみも深かったはずだ。それでも当時の美智の目にはやがて前に進みはじめるような輝きが残っていた。抜け殻のような十花の目にはそれがなかった。
十花は美智とも劇団のスタジオ以外ではほとんど会わなかった。美智も察して、十花を最低限気にかけて、あとはそっとしておいた。幸い僕と十花のアパートには変わらず帰ってきて、僕もそのたびに胸を撫で下ろしていた。僕が話しかければ返事はしてくれたが、自分からはほとんど口をきかなかった。
十花はいつ死を決めたのだろうか。それとも、決めてなんかいなかったのだろうか。
「十花は母親的な存在を失って、自らの人生も終わらせてしまった。僕も美智もこのことがショックでならなかったんです。僕や美智が一緒だったのに、結局あいつになんにもしてあげられなかったんです」
店員はすぐには話さず、僕の言葉をじっくりと確かめているようだった。
「あなたも美智さんも、十花さんに対して深く後悔しているのですね」
僕は頷いた。
「僕たちは十花をわかってあげられていなかったんです。あんな会話を最後に美智の祖母が死んで、十花は罪悪感と後悔に苦しんだと思う。でもそれだけじゃない。十花の人生ごと揺るがす大きな何かがあったと思う。でも僕も美智も十花の孤独を十分に理解していなかったんです。理解できたとしても、受け止めてやれるほどの広い心も深い愛情もなかったと思います。僕は十花の何にもなれなかった」
十花が消えてしまったその日から、ずっと頭のなかで聞こえている言葉だ。
僕は十花の何にもなれなかった。
「僕は十花の何にもなれなかった」
店員が言った。
「十花さんの気持ちを受け止めてあげることができなかった情けなさや無力感を、今日までずっと持ち続けてきたんですね。辛かったと思います」
そのとき僕の胸のなかにずっと凍っていた硬く冷たい塊が、急に溶け出すような感覚がして、溶けた液体がまたも目からこぼれそうになった。ああ、僕のなかにはそんな気持ちがあったのか。十花のなかにもあった気持ちだ。そこに気が付きもせず、「僕は十花の何にもなれなかった」という言葉を、何度も自分に刺してきたのかも知れない。もしも十花が、美智の祖母に対して同じような思いを抱き、自分の胸に突き刺していたのなら、やめさせてあげたかった。
「それから——、」
店員は少し考えているようだったが、一呼吸して口を開いた。
「十花さんの心を、すべて知らなければいけなかった。そういう思いを感じます。十花さんの人生の始まりから、一時一時を」
十花の人生の始まりから——。
僕はそのことについて、よくよく考えたこともないことに気づいた。
「そうですよね。十花の人生の始まりから、一時一時を知るなんて、無理ですよね。たとえば僕が美智をそれくらい知りたくても、一生かけたとしても知り尽くせる自信はありません。十花とは、長い人生でお互いに数年しか付き合いがありませんでした」
「その短い数年で、あなたが十花さんにしてあげたことを、僕におしえてください」
「踊りを教えたこと。一緒に住んだこと。酒を飲みながらゲームしたこと。くだらない話をしたこと。好きな映画とか舞台の話も真面目にしたな。それから、ビラ配り」
僕はあらためてひとつひとつ指折り数えてみた。
「こんなもんかな。でもこれだけは、十花も楽しそうだった」
店員は僕の左手の小指以外がしっかりと握られているのをじっと見ながら言った。
「その六項目は、あなた以外の人にもできたと思いますか?」
一粒だけ、涙がこぼれ落ちた。僕は首を横に振った。
「もちろん、十花の心を十分には知りません。十花は僕らと出会う前のことについてはあまり話したがらなかったから。それでも、僕は十花のいる稽古が本当に楽しくて、十花もまぶしいくらい楽しそうだった。十花がどれほど辛い思いをして生きてきたのかは何も知らないけど、僕は十花の青春の一部くらいになれたのかもしれません。まあ、ただの悪友ですかね。でも悪友にはなれた。なんかそれって、むしろ奇跡だったのかも」
僕は両手で自分の目をぎゅっと抑えて上を向いた。十花との時間が次々に蘇ってくる。
「たった三年の付き合いでした。でもそれが膨大な時間に思えるんです。そしてもっと一緒にいたかった」
僕が両手を離すまで、店員は待っていてくれた。しばらくすると、僕にこう尋ねてきた。
「あなたが十花さんにして欲しかったことはありますか」
僕はまだ上を向いていた。薄暗い天井に灯のついていない蛍光灯があった。今は、これがどうしようもない現実だ。もしも望めるなら、オレンジ色の灯りがいいかなとぼんやり思いながら僕は言った。
「やっぱり話して欲しかったな。死のうと思ったときにさ、僕に言って欲しかった」
不思議と自分の声は落ち着いていた。
「でも、一度だけ話してました」
美智の祖母の葬儀の日の出来事を僕は話した。
その日は雨だった。僕たちが形ある美智の祖母に永遠に別れを告げたそのあと、十花の姿が見えなくなった。探しに行くと外の庭にしゃがんで草をいじっていた。喪服姿の背中も髪も雨に濡れはじめていた。こういう背中を、何度見ただろう。僕は十花に近づきすぎず、けれど遠くない位置にしゃがんだ。
「さすがにここじゃビラは落ちてねえぞ」
十花は気が抜けた様子で一点を見つめていたが、そのまま鼻で笑った。
「俺さ———、」
十花はそう言うと、やっと視線が動いて、いじっている草をむしった。
「ときどき雨に濡れたくなるんだよな。なんか、自分を洗い流したいっつうか、汚したいっつうか。なんか、わかんねえけど」
十花は芝生の薄くなった地面の泥を指ですくった。その細い指に雨が落ちてきて、指の腹を少しづつ洗い流していく。
「こんなさ、泥みてえになりてえなって、なんか思うんだよな」
これが僕が初めて聞く十花の弱音だったと思う。僕は息をのみ、その先の言葉を遮るまいとなるべく静かに頷いた。沈黙の気配を感じて、そっか、とも言ってみた。でもその先は聞けなかった。
「日下部はさ、台湾での舞台頑張れよ。帰ってきたら、もうビラ配りには付き合わせねえから」
その頃にはすでに僕は舞台俳優としてデビューしていた。そして台湾での公演を控えていた。デビューしたての僕にとって、大きすぎる舞台だった。十花が僕のことを慮って、自分の話を切り上げたことはわかった。
「帰ってきたら、また雨の日に配ろうぜ。俺も雨に濡れるのは嫌いじゃねぇし」
帰ってきたら、雨の中ビラを配って、落ちたビラを回収して、そしたら続きを話せよ、十花——— 。
これが、僕と十花の最後のまともな会話だった。