【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❼
マザーオブパール。和名は白蝶貝。真珠を産み出す真珠貝のことをいう。美智が失くした金の指輪の台座には、白い霧のように美しく静かな佇まいの、マザーオブパールがあった。美智はあるときその指輪を祖母から譲り受け、いつも着けるようになった。それをときどき十花が着けていることもあった。マザーオブパールは美智の白くて美しい肌にも、十花の繊細な指にもよく似合っていた。美智は美しく落ち着いた女性だった。十花と一緒に立っていると、二人でスポットライトに当たっているかのように白い肌がいきいきとして、エルフ族のように見えた。お似合いの二人だった。僕は二人の何に喩えられただろうか。今思えばよくあの二人にくっついていて調和できたものだ。
現在僕と美智が夫婦になっていることを、十花は知らないのだ。いや、今は肉体はなくとも、どこかで僕らを見ていて知っているのだろうか。
「私はジュエリーアドバイザーのカトウと申します。今から日下部様のお話を聞かせていただきたいと思います。結婚記念日のジュエリーをお探しになっていらっしゃるということで、奥様やご結婚にまつわるお話をお聞きできたらと思っております。ここで話されたことの秘密は守られますので、お話になりたいことはなんでもお話しください」
僕は最初の説明事項を聞き、同意した。
「奥様とはどこで出会われたのでしょうか」
「同じ団員で。カトウさんなら知っているかな、川島美智を」
「ああ!もちろん知っています」
カトウという店員は一瞬の間をおいてから言葉を言った。もう少し驚くかと思ったが、そうでもなくて安心した。
「川島美智さんとご結婚されていたんですね。お二人で主役を演じられていることが多いですよね。次の公演でも共演されるんですか?」
「いや、美智は今産休を取っているんです。あ、これは誰にも言わないでいただけますか」
「大丈夫です。ここでの秘密は守られますから」
「ああ、そうでしたね」
「それはおめでとうございます。では、劇団『古都』で出会われて、ご結婚されたのですね」
「はい」
僕は目線を下げながら言った。だんだんと僕は数年前のことを思い出し始めていたからだ。美智との思い出を語るのに、はずせない男がひとりいる。
「舞台の世界はきっと厳しいものなのでしょうけれど、お二人でいろいろなことを乗り越えたりなさったのでしょうか」
僕は店員の顔を見ていた。いや、見てしまった。お二人で、という言葉のところで。話そうかどうか迷った。美智以外の人物とは話したことのない思い出だった。けれど僕は誰かに話してみたかった。本当はずっと、話したくてしかたがなかった。心の痛み、この罪悪感を。
僕が店員の顔を見つめているあいだ、店員の顔にはうっすらと疑問符が浮かんでいたが、真摯な目で僕を見つめて待っていた。若々しい顔つきだが、その目はよく凪いだ海のようだった。僕がどのように生きてきたか、そのひだの裏側まで言葉にしたとしても、小さな波すら立たないかのようだった。
「あなたは今、お二人と言ったけど、二人じゃなかった。僕たちは、三人で…」
やっとの思いで言った僕の口はカラカラに乾いていた。窓の外は真っ暗で荒れていた。もう一度店員を見た。店員はさっきの姿勢から少しも動かず僕を真っ直ぐに見据えていた。窓を叩きつける風と雨の音以外は静かなこの部屋のなかで、店員はいっそう静かな空気を醸し出し、男の輪郭がいっそう冴えて浮かび上がった。それは何かの亡霊のようで、僕は一瞬ぞっとした。常温の空気に晒されることを恐れて、冷凍保存されていた僕の心が、いつの間にか取り出されてそこにあるようだった。その顔に触れば、感覚を失うくらいに冷たいに違いない。
「お話しできそうですか?」
その顔は言った。不思議だった。店員が声を発すると、先ぼどの冷たさが少しずつ解凍されていくような温度を感じた。まあ、それもそうか。店に来てからずっと感じているように、この店員の態度は終始温かくて誠実だった。でも、どう言葉をつなぐか。この喉に詰まったつかえは、塊は、どうしたら出てくるのか。目まぐるしく僕がいろいろと感じているあいだに、店員が口を開いた。
「もうひとり、大切な方がいらっしゃったのですね」
大切な方。そうだ。少なくとも大切な友人だ。長く長く、そして幾通りにも枝分かれした蔦のような罪悪感と絡み合っていようとも、心のなかから絶対に取り除きたくない、大切な存在。
「五年前まで、僕には友達がいました。十花っていうんだけど、僕と同い年で、同じ劇団にいたんです」
僕は話した。悪友のことを。あいつが苑で育ったこと。劇団に入るまでのいきさつ。僕らが悪友となったわけを。思い出を。駅でのビラ配りのことを。
「そうですか。十花さんは日下部さんにとって、特別な存在だったのですね」
しばらくじっと黙って聞いていた店員が言った。僕は話しのあいだ、ずっと両手を組み合わせたり解いたりしながらほとんど下ばかり見ていた。というより、僕のなかにある思い出を見ていたのだ。ふと目を上げると、目の前に冷たい水の入ったグラスが置いてあった。店員は終始僕の話に相槌を打ってくれていたはずだったが、いつの間に水を持ってきてくれたのだろうか。グラスの中の氷はすでに角が丸くなり、水滴がグラスをつたい落ちてテーブルを濡らしている。僕は冷蔵庫の上にある使われていないグラスに目をやり、一つ減っているのを確認した。
「すみません。コースターがどこにあるのかわからなくて」
「あ、いや、いいんです。ありがとうございます」
僕はその水をひと口だけ飲むはずだったが、結局全て飲み干してしまった。やっとここまで話し切った喉に、水が流れ込んでくることが、心地良かった。
「当時は十花と美智が付き合っていたんです。僕は二人の仲を見守る役だった。もしかしたら、どこか危うい雰囲気の十花を、美智がしっかり繋ぎ止めてくれるように見張っていたのかもしれないけど。でも、三人でいるときはみんなきょうだいのように過ごしてて…」
僕は思わずクスッと笑ってしまった。
「三人一緒の時間が、楽しかったのですね」
「うん、幸せだった」
「そうですか」
三人一緒に食事をしたり、ふざけ合ったり、映画を見たり、何にもたとえることができない、僕ら三人だけの形だった。
店員は少しのあいだ何も言わずにいてくれた。その顔は幼い子どものようでもあったし、静謐な表情に彫られた菩薩のようでもあった。それは僕のなかで今も生きている三人一緒の時間を映し出してくれた。
「知りませんでした。十花さん、日下部さん、美智さんにはそのような繋がりがあったのですね。十花直人さんという役者さんがいたことも、初めて知りました」
「残念ながら十花のことは誰も知らないんだ。十花は役者としてデビューを果たせなかったから」
「果たせなかった…?」
店員は僕の次の言葉を待っている。話さなければならない。なぜならば、ずっと話したかったからだ。
「十花は、五年前に、…死んだんです」
声が震えて上手く言えなかった。死という言葉を口にした途端、体の芯がこれまでにないほど揺れ始めた。十花のことを他人に落ち着いて語ることは、こんなにも難しいのか。もう五年も経つというのに、まだ僕は十花のことを引きずっているのだろうか。
「そうですか。十花さんは五年前に死んだのですね」
それから店員は、キッチンからウォーターピッチャーと布巾を取ってきて僕のグラスの下の水たまりを拭い、水を注ぎ、何も言わずにグラスをそこに置いた。
辛くなったらこの水を飲めばいい。堰き止められた気持ちが一気に流れ出さないように、僕は唇を噛みながら、静かに言った。
「もう、こんな友達はできないかも知れない。僕の最後の友だちだった」
僕は下を向いていたが、店員は僕を真っ直ぐに見ていた。店員はメモすら取らなかった。僕は、彼が真正面から僕の言葉を聞いてくれているのがわかった。
「十花さんはなぜ亡くなられたのか、伺うことはできるでしょうか」
店員が静かに尋ねてきた。本当に声を発したのかさえわからないくらいに静かで、この男のもっとずっと奥から聞こえてきて、それでいて声は僕のすぐそばで聞こえたような気がした。この男の深いところから、痛みが滲み出てくるような、そんな感じがした。なぜだろう。こんなふうに感じるのは。
「わからないんです。なぜ死んだのかは」
店員は何も言わなかった。ただ僕の言葉を待っていた。
「友達なのに、わからないんです。あんなに近くにいたのに、十花がなぜ死んだのか、わからない。今日までずっと、わからないままだ」
僕はいっそう下を向いた。惨めな気持だった。ずっと一緒にいた友達の死について知らないことが、そして助けられなかったことが、僕の、人間としての最大の失敗なのだから。これこそが僕が、ずっと封印してきた事なのだ。
「そうですか」
店員は言った。そして次の言葉はこうだった。
「日下部さん、それは今までとても辛かったですね。十花さんが亡くなった理由を、そのときに知りたかったと思います。それを知ることができないまま今まで過ごしてきて、苦しかったですね」
僕はまさかこんな言葉をかけられるなんて思っても見なかった。でも僕が抱えてきたこの気持ちにやっと名前が与えられた、そんな気がした。僕は十花の死の理由がわからないことにずっと苦しんできたのだ。僕は目に涙を溜めたが、それをもうおさえきれないことを悟った。
「十花は、自殺したんだ」
言うと同時に店員は頷いてくれた。まるで幼い頃の友達を思いやるかのような目で僕を見ていた。年下の男からこんなふうに見られるなんて、そんなことがあるのかと思いながらも、僕は両の手で目を覆って、涙の波が来てその波が引くまでを何回かやり過ごした。