【小説】ジュエリー店『エピソード』へようこそ。❽
一瞬にして、笑いに満ちた日々と夢と十花が、僕らの目の前から掻き消えてしまった。言うまでもなく僕は抜け殻になった。何日も何週間も、心は十花がいないことを不思議に思った。稽古場でひとり練習していれば、ドアから十花が入って来る気がした。コンビニの前を通れば、そこから十花がアイスでも買って出てくる気がした。アパートの部屋の中で、外階段を上る足音にきき耳を立てた。あいつの足音だ。いや違う。それでも何かの拍子にドアがガタッと鳴る。僕は言うだろう。驚かせやがって。どこに行ってたんだよ。そう言うと十花はとぼけて、どこかの外国の名前を言いながら、アイスを頬張る。あるいはなんでもないふうに、美智のところに行っていたと言うだろうか。でも実際は風が吹いて、ただドアがガタついて、毎日その繰り返しだった。
「日下部さんは、十花さんがなぜ自殺なさったのだと思いますか」
「遺書も見つからなかったので、本当のところはわからないんです。ただ——」
僕が思いを巡らしているあいだ、店員は次の言葉をじっと待った。
「十花が死ぬ三ヶ月前、美智のお祖母さんが亡くなったんです。十花はとても慕っていたから、かなりショックを受けていたんです」
美智の祖母が亡くなった後、しばらくすると十花はまた笑うようになった。もとのように劇団員たちを笑わせることも増えて、いつもの日常に戻っていくかに思えた。
「そのとき僕と美智は、十花の心の傷はまだ癒えていないと感じていました。美智のお祖母さんが死んだとき、十花はかなり泣いて、尋常じゃなかったんです。あんな十花を初めて見ました。美智のお祖母さんとはきっと特別な、何かがあった」
「特別な何か」
「十花には両親がいなかったし、十花にとって美智のお祖母さんは、母親だったのではないかと思います。美智のお祖母さんはとても懐の深い人でした。僕は一度だけ会ったことがあったけれど、優しくて、でも決して過保護ではない人でした。知的で、落ち着いていて、ゆったり構えて微笑んでいるような人。美智は、そんなお祖母さんを賢い魔女って呼んでいました」
美智はデリケートな十花の気持ちを察するのが上手くて、感心するほど気遣いがよくできた。そんなとき僕は十花の見ていない隙に、美智に音のない拍手を送った。すると必ず美智は「賢い魔女に習ってるから」と耳打ちしてきた。魔女見習いに僕も何度も助けられ、十花との関係を維持できたのだ。だから美智の祖母には会う前からリスペクトがあった。
「素敵なお祖母様だったんですね」
「ええ。いつか美智が僕に話してくれたんです」
僕は店員に、美智と十花の二人が、お祖母さんの家に何日か遊びに行ったときのことを話した。ある午後、居間のソファで十花が眠りこんでしまったので、美智がひとりでスーパーまで頼まれた買い物をして帰ってきたときのことだった。美智が居間のドアを開けようとすると、十花と美智のお祖母さんが二人並んでソファに座っているのを見た。お祖母さんは穏やかな顔で何か言いながら、十花の頭を二回ポンポンと叩いた。十花は子どものようにソファにもたれかかっているままだった。それを見たとき、今は部屋に入ってはいけないと美智は思った。今部屋のドアを私が開ければ、この無防備な直人はパッと姿を消してしまう。
「美智さんは、素の十花さんを見た気がしたのですね。そして素のままの十花さんでいられる場所を必死に守ろうとしていた美智さんの思いを感じます」
美智は十花のそんな姿を見たことを、誰にも、もちろん十花本人にも話さずずっと胸の中にしまっておいた。この話を僕が聞いたのは、十花が死んでしばらくたってからのことだった。十花に祖母とのつながりができたことが、十花を心配していた美智にとって嬉しかったのだろう。きっと美智のことだから、そうさせたくて十花を祖母に会わせていたのかもしれない。魔女見習いなりに考えた課題が成功した日だったのかもしれない。開け放った窓から五月の風がゆったり入ってきて、揺れているカーテンを西日が金色に染めてとてもきれいだったと、美智は言っていた。
店員はじっと僕の話に耳を傾けていた。僕を見つめる目が、憧憬を帯びて輝いている。
「素敵なお話しですね。十花さんと美智さんのお祖母様とは深い心の交流があったのですね」
「帰る日になると、お祖母さんが自分の指から指輪を外して美智に渡したんです。それがさっき話したマザーオブパールの指輪なんです。美智と十花の幸せを願ってのことだったらしい。今までも美智の幸せを願ってくれていた祖母だけど、このときほど嬉しかったことはなかったんじゃないかと思う。そのときから、指輪は二人のものになったんです」
指輪は美智が着けていることもあったし、十花が着けていることもあった。二人のあいだにどんなルールがあったのか、僕は決して聞かなかったが、そうして時々指輪を交換している美智と十花が、自分のことのように嬉しかった。
「十花さんは両親がいらっしゃらなかったので、美智さんのお祖母様の存在は母親そのものだったのですね。そして十花さん、美智さん、そして美智さんのお祖母様のあいだに温かい絆ができていたんですね。とても大切な指輪だということがわかりました。でも失くされてしまった——」
そう。その後僕と美智は、指輪と、十花と、絆を、失くすことになった。
「その後も十花と美智は、お祖母さんの家によく遊びに行っていました。そのうち僕も誘われて、三人で会いに行ったんです。その日のことでした。お祖母さんが十花に、愛していると言ったんです。その言葉が、引き金だったんです」
「愛しているという言葉が?」
四人で話していたとき、お祖母さんが自分が生きてきて幸せだったこと、美智や十花や僕の幸せを祈っていることを話してくれた。そのとき、三人ひとりひとりに愛していると言ってくれた。僕も、お祖母さんが心から言ってくれたことが伝わってきた。美智もそう感じてた。同時にお祖母さんがそんなことを口にするのは、めずらしいとも感じたらしい。けれど十花といえば、様子がおかしかった。そして、何が気に入らなかったのか、お祖母さんを傷つけるような言葉を言ってしまった。
「なんて言ったのですか」
「本当は、俺たちのことなんか愛しているわけないだろう」
——何大袈裟なこと言ってるんだよ、愛してるってなんだよ。そんなに簡単に言えるのかよ。本当は、俺たちのことなんか愛しているわけないだろう。俺さ、そういう言葉いちばん嫌いなんだよね。
十花は、怖いほど静かにそう言った。十花、やめろ。俺たちのことを思って言ってくれてるだろ。美智は黙って真っ直ぐ十花を見ていた。十花はたまにイライラして皮肉を言うこともあったが、ここまで言うのはめずらしいと僕も美智も思った。祖母の言葉に対して、なぜあんなにむきになって酷い言葉を返したのかわからなかった。十花はその場から出て行ってしまった。美智と僕は十花がバタンと閉めた部屋のドアを、見つめることしかできなかった。
ごめんなさいね。私が悪かったわ。とお祖母さんがゆったりと言った。きっとこれまで、いちばん言って欲しかった言葉を、一度も聞いたことがなかったのね。お祖母さんは美智が言った通り、「賢い魔女」だった。あの子はきっと、小さいときに信じられる人がいなかった。ずっと聞きたかった言葉をいざ聞いて、でも信じられなくて、怖くなってしまったのね。私も、ちょっと早まったことをしてしまったわね。そう言ってため息をついたあと、僕たちに笑顔を見せてくれた。まあ、ちょっとそっとしておいてあげましょう。お茶を淹れなおすから、飲んだらあの子を迎えに行ってあげなさい。
お祖母さんに会ったのは、僕たち三人にとってこれが最後になった。まもなくお祖母さんは他界した。この日の出来事がまるで嘘だったかのように。賢い魔女は、美智にも上手く病気を隠していた。けれどお祖母さんが亡くなったとき、なぜ美智に指輪をあげたのか、なぜ三人に「愛している」と言ったのかを、僕たち三人は理解した。