春を待つひと
「先輩最近元気ないっすね」
先輩の口からふう、と白い煙が漏れる。
口数の少ない彼としては、首を傾げてまた静かに煙草を咥えることで、これ以上返事をしないと伝えたつもりなのかも知れない。
向かい合わせに座ってポケットから煙草を取り出しながらまた口を開く。
「どうしたんすか、一時期浮かれてたくせに」
「うるせ」
ぽそりとそれだけ言い捨ててから、彼は二本目に手をかけた。休み時間が不規則で次がいつになるか分からない業界だと、タイミング惜しさについ二本分は一気にニコチンを摂取してしまう。
「彼女と喧嘩でもしたんすか?」
「……」
「え?図星?」
「うるせーって」
「いっって」
灰皿の脇から足が出てきて、がすっとふくらはぎの横っちょを蹴られた。
これだから感情表現の乏しい人間は。
すーぐ手足が出る。
でも否定しないということは、肯定してるのと同じだ。
「どうせ先輩が変なことしたんでしょ」
「……」
「なんすか、もしかして別れた系?」
煙草を吸っていることを言い訳に、先輩はシカトを貫くことを決めたようだった。
「え、嘘。俺結構好きだったのに!」
「会ったことねーだろ」
先輩はふうと一つ煙と共に息を吐いてアイコスを仕舞った。
それはほぼ肯定だった。すぐには立ち去らなそうな雰囲気に、つい煙草を指に挟んだまま前のめりになる。
先輩は一つ上で上司だ。
あまり自分のことを話すようなタイプではないけれど、後輩部下の指導を含め、仕事に関しては余念がない。職場を良くするためや他の社員のためであれば、嫌われ役になることも厭わない。
早い話、憧れだった。
「だって例の桜の彼女ですよね」
「桜?」
「春先、写真送って来てたあの」
「…あー。よく覚えてんな」
今でもはっきり覚えている。
真っ青な空に手を伸ばす、薄い色の桜を。
先輩は他の人間に嫌な顔一つしなかった。
バイトを一人叱った後だったけれど、誰かに当たるわけでもなく、黙々と仕事をこなし、お客様の相手をし、抜けるようにいなくなった。
追うようにこちらも手が空いたので喫煙所に向かうと、昼ご飯よりも先にニコチンを摂取していたらしい先輩と鉢合わせた。もう既に15時を回っていた。
何を言えばいいのか分からなくて、お疲れ様ですと頭を下げて逃げるように煙草を咥えた。
先輩は正しかった。
バイトは先輩がいないときに別の社員が採った女の子だったが、事実勤務態度が悪いだけでなく人間関係を引っ掻き回すので誰もが迷惑していた。
少し厄介な事件があったことから、先輩は別室で彼女を叱り、やめさせることに成功した。
グッジョブと思ったのはもちろん自分だけではないが、彼女の味方がいないわけではないことも、そんな中大抵の決意でできることではないことを彼が俺たちのためにやってのけたのだということもまた、全員が知っていた。
「…桜」
「はい?」
「もう桜が咲いてるらしい」
気まずい雰囲気の中で聞くにはあまりに突拍子がなかったので、つい聞き返してしまった。桜?
先輩は特に気分を害した様子もなく、携帯を見ながら煙草を口に咥えたまま何度か頷いた。
「ほら」
少し体を乗り出した先輩の携帯を見る。
飾らない写真だった。
プロのような加工技術もなければ、気の利いた構図もない。
そこにあるのは、青空と、太陽に負けて色の薄い桜の花と、感動を共有したいという撮った人間の思いだけだった。
タイミング的なもののためか、なんだか少し感動して呆けていると、先輩は黙って携帯を引いてまたじっと写真を見た。
その目尻から、先ほどより少し緊張が薄らいでいるのが分かった。
「…綺麗っすね」
先輩が頷く。
「いい彼女さんすね」
これには頷かなかった。
よし、と顔を上げ立ち上がる先輩の表情に、もう緊張や疲弊はなく、凛とした目はいつもの尊敬するそれだった。
そんな先輩を、一人でも生きていけそうな彼を、遠くに居ても支えている恋人になぜか羨ましさを感じた。
二人の関係性と、流れる空気の優しさに憧れ、誰かにとってそういう存在でいられること、誰かがそう感じていてくれることにある種の嫉妬すらあった。
俺たちになんて決して弱音を吐けない先輩がいつだってみんなの憧れでいられるのは、きっとそんな存在がいるからで、彼女たちにしか見せない顔を持っているからこそだろう。
「…謝った方がいいですよ」
「……」
「優しいから、きっと許してくれますよ」
先輩は足を組み替えた。
「俺は、あの人といるときの先輩好きですよ」
お節介。何も知らないくせに。
自分でさえそう思ったのに、先輩は既にマスクで隠れた口元を指先でかいて、うん、と小さく返事をしたのだった。