あの雲は溜息に似ていた
「一口ちょうだい」
彼はきょとんとした顔でこちらを見たけれど、逡巡ののちはい、と吸いかけを手渡してくれた。
「どう?」
「…うーん。慣れれば美味しいのかね」
電子煙草独特の味と匂いが鼻をつき、少しだけ顔を顰めて返した。
受け取るところからわたしの表情をじっと観察していた彼は、それに短く同意して同じ先端を口に咥えた。
「程々にしなさいよ」
「何を?」
「タバコ」
「やだな、吸ってないよ」
普段は、と皆までは言わずにまたソファに背を預けた。
わたしは弱い人間だから、何か寄る辺がなければ生きていけない。
それは彼氏だったり友達だったり関係に名前のない誰かだったりなんでもいいのだけれど、極端な話、人間でなくてもなんとかなるのだった。人間であれば尚いいが、叶わなければ煙草でもいい。
「なに、仕事うまくいってないの」
「普通かな」
「じゃあ彼氏とうまくいってないわけ?」
「そもそもいたら来てないでしょ」
「いやなんでだよ来いよ」
「来ないよ」
口先だけで少し笑って見せたけれど、彼は反応を示さなかった。
普段テレビを見ないわたしの部屋にあるものより2倍も3倍も大きな画面からは、彼が撮り溜めているバラエティーが常に流れている。あまり感情を表に出さない彼がお笑いが好きだと言うのは未だにあまり飲み込めていない。
「男は元カノたちが自分のこといつまでも好きでいるって思ってる、って揶揄されることが多いけど」
ゆっくりと切り出す。
彼はこちらを一瞥したけれど、わたしの視線がテレビにあるのを見ると自分もまたそちらに視線を戻した。
「女の子も変わんない。いつだって男の中で自分は特別だと思ってるし、実際自分の中でも元カレってちょっと特別だから」
そう、とだけ返事をして、彼はアイコスから煙草を外した。ついでのようにふう、と吐かれた息が宙にふわりと浮くのが白く見える。
「そりゃ男にとっても特別だよ。幸せになってほしいと思ってる」
「優しいんだ」
「…まあ、たまに不幸になれとも思ってるかな」
かぽんと蓋を開け吸い殻を放ったプリングルスの空き容器は、7割ほど既に腹を満たしている。これが一杯になるのに、どれくらいの時間とお金を要すのだろう。
「たまに」
「たまに。俺のいないところで勝手に幸せにならないでくれって」
相変わらず抑揚もなく感情の見えない声色だったけれど、その発言にはいろんな感情が見え隠れして思わずちらりと様子を伺った。
「…それはあるかもね」
「縋り付いてくればいいんだよ」
「まあ分かるけど」
わたしは意味もなくプリングルスに手を伸ばす。
意味もなく横向きに揺らすと、しゃかしゃかと音が鳴る。
「でも、縋り付いたところで助けてはくれないんでしょ」
「んー。どーだろう、時と場合によるかな」
テレビからこちらに視線を移した彼と、ゆっくり目が合った。
目を閉じたら負けだ。
思えば煙草に逃げるクセはほとんど彼のせいだ。
彼がいつだって煙草の匂いを、味をさせていたから。彼に頼まれて煙草の買い方を覚えたから。
煙草を吸えば、彼がまだ傍にいるような気がしたから。
別れたあと、復縁を迫られた。
どうしても彼との幸せな未来を描けなくて泣きながら首を横に振った。
「振られた相手に縋る男になりたくない」と彼は言い、わたしも納得し、それきり、ということになった。
宣言通り連絡を断つつもりだったようだけど、結局お互いしかいなかったわたしたちは、その後も付かず離れずの関係を壊すことはなかった。
どんな気持ちで受け入れてくれるのだろう。
どれだけの覚悟で手を伸ばしてくるのだろう。
わたしはいつだって泣いて抱きつくようなことはできないのに、全てを無碍にすることばかり覚えていく。
「助けてほしいの?」
部屋に響く音はもう聞こえない。
わたしはまた、泣きたい気持ちとつんと痛む鼻にそっと蓋をする。