初めて付き合った人のこと
もの心ついた時から誰かしら好きな男の子がいた。だいたい色が白くて、目が綺麗に丸くて、笑顔の屈託のない、いわゆる美少年で何人もの女の子が心を奪われてしまう定番のような男の子のことを。奥手で恥ずかしがり屋だったから、好きな人なんていないふりをして、その男の子が他の子と仲良くなるのを見てそれが自分ではないことに心を痛めたりしていた。
中学校に入学して初日から早速一目惚れした。横顔が三日月のお月様みたいで、肌が白くて切れ長の目で、静けさが漂っていて、どきんとした。彼のことはクラスが変わっても3年間ずっと好きだった。彼は割と不器用な人で、かっこいいともてはやされる割には浮いた話はなかった。彼を好きだとは誰にも言わなかったしおくびにも出さなかったけれど、彼には私の気持ちが伝わっているのが分かった。私がひっそり見つめているのを彼は気づいていた、彼だけに気づかれるように見つめていた。かすかに目が合う瞬間にまたそらすようなことを毎日続けていたから、彼が私を気にしてくれているのは分かった。でも付き合うとか、思いが通じ合った後に彼と何を話すのか、どう過ごすのかなど怖くて全く浮かばなかった。
今なら分かる。あの時は、アイドルに熱中する友人たちが理解できなかった、手の届かない芸能人なんかを好きになって何が面白いのかわからなかった。近くにいて生きている、同じ時間と空間を過ごすことができる学校の美少年たちの方がよほど心ときめく存在だと思っていた。
今なら分かる。私が恋だと思っていた気持ちは、彼女たちのアイドルに対する憧れと同じだった。遠くから眺めて心をときめかせ、心の中では一喜一憂する。でも、こっち側にはきて欲しくない存在。綺麗で、そこにいてくれればいい存在。
2年生の終わりに、”彼女を取っ替え引っ替えしている”という男の子に告白されて付き合った。彼も綺麗な顔立ちをしていて運動神経が良く、ちょっと不良っぽい物言いでクラスの目立つグループに属していて、2つ年上の美人なお姉さんがいてオンナのことはよく知っているらしくて、私にとっても4番目くらいに心のときめく存在だった。お月様の横顔の持つ彼の方が好きだったけれど、少し目を合わせる以上のことには進めないと思っていた。バスケの彼はこっちにわざわざ手を伸ばしてきた、目立たないように息を潜めて生きていた自信のない地味な私にも。こういうことは色恋沙汰に慣れている人のやり方に任せてみれば分かることもあるのかも、と思ったような気がする。彼ならHOWを知っているような気がしたから。
とはいっても、結局クリスマスプレゼントを交換して(大人っぽいけど全然可愛くない腕時計をもらった。何をあげたかは覚えていない)、何度か電話で話して、でも実際に学校で会うとまわりの目が気になって何を話したらいいかわからなくて目をそらして、声をかけられても逃げてという塩梅だったから、バレンタインにFILAのスポーツタオルを渡しに家に行こうと勇気を出して公衆電話から彼の家に電話をしてみたら、もういいよと振られた。平坦な冷たい声だった。悲しいというよりは、そうだよね、と思った。バスケの彼とお月様の彼はほどほどに仲が良かったから、多分私のことも聞いたのだろう。お月様の彼とそれから目が合うことはなくなった。こちらの方がよっぽど振られた気がした。私はそのまま、アメリカに転勤する父について高校受験を目前に転校することになった。ちなみにお月様の彼は、今人気の韓国アイドルBTSの、「世界一美しい顔一位」に選ばれたテヒョンに似ていて、youtubeを見て思い出した。美化しすぎているかもしれないけれど。
アメリカでも、すっきりとした顔立ちの美しい韓国人とか、目鼻立ちのはっきりしたあまり笑わないクールなインド人とかを好きになったのに、実際には大して好きでもないベトナム系アメリカ人の人とデートしたりしていた。男の子は好きだけど苦手な存在だったと思う、どうしたらいいのかよく分からなかった。面食いで一目惚ればかりするから、内面を知らないまま照れて話せなかった。
高校で日本に戻ってきたあとも、相変わらず大きな目を持つ人ばかりに惚れていた。中学生の時よりは上手く話せるようになった、恋心は隠して、友達のふりをしてサバサバと話したりして。でも他の女の子と親しげに話しているのを見かけると苦しくなって、愛想が悪くなってどうしたのと言われたりした。青春していたってことなんだろう。
大学に入っても懲りずに、子供の頃からモテていたんだろうなと思われる、目のクリッとして鼻筋の通った小柄な先輩を好きになった。でも本気でその人のことを知りたいと思っていたわけではないことに気づいていたような気がする。サークルの活動ではどの先輩が気になる、みたいなネタがあったほうがいろいろ便利だったりしたし。今は名前すら思い出せない。
さて。
サークルの同期のその人は、目つきが悪くて無愛想で、背が高いけれど猫背で、カネがないからと飲み会には全然参加しないで同郷の友人といつも自宅でゲームをしていて、サッカーが好きでお洒落というよりは他に服を持たないからいつもサッカーのユニフォームを着ていて、でもお笑いでいうところのツッコミ担当で頭の回転が早く、たまにくる飲み会では軽快に場を盛り上げ、そしてメガネをかけていた。
目立ちたがりではないけれど、いざというときに前に出てきて論理的にものごとを整理して、お笑いを半分まぜて綺麗な女性の先輩を持ち上げたりするけれど媚びたりはせず、なんだかつかみどころのない、最初の印象は陰気なサッカー好き、としか思わなかった彼のことが少しずつ気になっていた。
その時私は奈良出身のぬめっとした女の子に狙われて、彼女が選んだ5人のグループに属していた。彼女は寂しがりやで、お笑いが好きで、変な色気があって、笑いに包みながらも自分が支配できそうな人を選んでつるみ、物理的にも精神的にも決して自分が一人になるような状況を巧みに作らないようにする人だった。絶対トイレに一人で行かないタイプで、自分の好きな先輩には手出しをさせないよう見張っているような人。彼女のことをこんな風に書くくらいだから、今思えば私は彼女が嫌いだった。たぶん、すごくうとましかった。一緒にいる子たちのことも本当はそんなに好きじゃなかった。でもなんだか怖くて巻き取られるように一緒にいて、お互いの家でたこ焼きパーティとか、フリマを出したりとか、買い物に食べ放題にカラオケはもちろん、海や山にも遊びにいったり、国内にも海外にも旅行も、彼女の奈良の実家にもみんなで遊びに行った。でも彼女も、私が彼女を本当は好きではないことも見透かした上で、私をそばに置いておこうとしていた気がする。
大学デビューというほどではないけれど、私は明るい元気な帰国子女キャラをつくって、カラフルな服を着ていろんなものを組み合わせながら毎日異なるコーディネートを楽しむことに心を砕いていた。髪を茶色くしてゆるくパーマをかけ、カリッと元気な感じの女の子でいたかった。サバサバして、男の子も交えて飲み明かしたり、グループでつるんで鍋をしたり出かけたりというのに憧れて、実際にしてみたりした。
ディズニーマニアのサークルの先輩にディズニーランドに誘われて一緒に行った。あまりにもタイプでなかったため親戚のおじさんと出かけているような気持ちでいたから、閉園前に告白された時はびっくりした。なんといって断ろうか思った時に、無愛想なメガネの彼のことが浮かんできてまたびっくりして、今は彼氏が欲しくなくて、と嘘をついた。
メガネの彼とはその後も友達のふりをしていたけど、実は合宿の時に私が彼のことをめちゃくちゃ好きなのだ〜と酔っ払って騒いでいたのを、他の同期に呼ばれて物陰から聞いていたらしかった。ちなみにそういう騒ぎ方も、大学のキャラ作りと、恋バナをさせたがる奈良女の教育の上での行動だったように今は思う。
私は彼がまさか聞いていたとは知らずに、その後も彼を含めたクリスマス鍋パーティなるものに参加しつつもろくなことが話せなくて落ち込んだり、バレンタインにクッキーを焼いてその中にハートの形を一枚混ぜたりしたのをあげたり、英語を教えてあげるというのを口実に、二人で話す時間を一生懸命確保したりしていた。ホワイトデーに彼は買い物に付き合ってネックレスを買ってくれたり、さらには観覧車にまで一緒に乗ったのに、私はただの明るい女の子としてわいわいと振舞ってそのまま別れたりした。あとで聞けば、そこまですれば告白するだろうと思っていたのに何もしないから、女子グループでふざけて好きだということにしていたのかと思った、と言われた。
告白したのはなぜかエイプリルフールで、ドトールか何かの普通のコーヒーショップで勉強か何かを一緒にした後、塾のバイトに行くという彼を見送る改札で、好きです付き合ってくださいと言った。なんでこんなタイミングで、とちょっと笑って、いいよと言ってくれた。彼とは、付き合ったら話してみたいことや過ごしてみたい時間がイメージができていた。
彼とはその後足がけ9年付き合った。はじまりのとき、彼はとても大人びて見えた。鹿児島出身の彼は、両親から高校を卒業したら自立しろと言われ続けており、奨学金とアルバイトで生活費と学費をまかなっていた。中高一貫の仲間と男女関わらず仲が良く、とくに仲の良い3人とはだらだらしながらもつるんで、よく一緒にお互いの家で過ごしていた。サッカーや野球観戦やお笑い番組が好きで、知的で論理的で、でもいい意味で男尊女卑で女性は弱い存在だから男が守らなければいけないと考えていて、飲み会は基本的に来ないし媚びないけれど、面白くて漢気があって、男女年齢限らずに一目置かれている感じがあった。彼のような痩せ型でメガネをかけている知的な人に、その後私はすっかり弱くなった。
焼酎に日本酒、お肉の刺身、本物の温泉、おかみさんのプロの心遣い、ゆっくりとした車の旅、こうしたものの良さを彼を通じて学んだ。落ち着いた彼に追いつきたかった。精神的に大人になりたかった。自分で考え、媚びないけれど反抗するわけではない、凛とした人になりたかった。大学3年生になる頃には、私は黒髪のしっとりとした、きれいめのシルエットに小物で遊び心をプラスしたコーディネートを、ヒールパンプスの足元で仕上げ、しずかにニコニコ微笑んでいるような落ち着いた雰囲気の女性になっていた。それがいい女ということだと思っていた。
今の会社の募集も、彼が見つけてきてくれた。何社も落ちて自信をなくしている私にとって、初任給が良くて、アパレルやファッションの企画職に関われる夢みたいな募集要項だった。すこし遅い時期の募集だったのが気になったけれど受けに行き、不安になるくらいトントン拍子で内定が決まった。その会社にもう15年勤めている。異動が多く現在10個目の部署で働いていて、社外への出向は3回目。想像以上に幅の広い経験をさせてくれる会社だった。
卒業旅行は博多で待ち合わせして、彼の運転で九州全県一周の旅をした。それぞれの県の名所を訪れたり、温泉や郷土料理に地酒を楽しんで、鹿児島では彼の家族と可愛いゴールデンレトリバーと過ごし、本当に充実した楽しい時を過ごした。嬉しかった。
ずっと彼に追いつきたいと思っていた。でもだんだん、せっかく会ってもずっとゲームやテレビでスポーツ観戦やお笑いを見たり、いつまでも寝ていたがったり、食べに行くお店やテイクアウトするものがだいたい決まっていて定番化していたりとか、そういう時に一緒にいるとなんだか自分の時間をたまらなく無駄にしているような気がしてイライラした。退屈だった。
彼の好きな野球観戦に一緒に出かけ、その場の雰囲気とか、居酒屋とは違うゲームを観ながらの生ビールの美味しさとかを感じることはできたけど、結局選手の名前もゲームのルールもろくに覚えなかった。遠くの豆粒のように表情の見えないおじさん選手たちに、感情移入することはなかった。
会社員になって一年経った頃、私の浮気が原因で別れた。浮気相手と一緒にいても幸せじゃなかったけど、彼と離れたことに少しホッとした。
約半年後、ドロドロのぐしゃぐしゃだった私のもとに、彼から久しぶりに飯に行こうと言われて、過去の手放してしまったこの人との再会をどんよりした気持ちで迎えた。弾まない気持ちで渋谷の店に入り、ご飯を食べて食後の紅茶を飲んでいる時、戻ろうと言われ本当にびっくりした。お前にとって、人生で初めての間違いだっただろうから、と。大した器の人だと思った。私は絶望的なぐしゃぐしゃをなんとか片付けて彼の元に戻り、その後三鷹で一緒に暮らしはじめた。
三鷹を選んだのはお互いの通勤に便利で、彼の好きなジブリの美術館があったからだ。結局一度しか行かなかったけれど。一緒に見に行った1件目の物件がすっかり気に入って決めてしまった。2LDKのマンションで、畳の部屋もあり、リビングは広々としていた。
同棲生活は快適だった。食の好みは似ていたし、私は料理するのは嫌いじゃなくて、彼はそれをいつも美味しそうに平らげた。皿洗いは一緒にして、彼もハンバーグとかエビマヨとか、美味しいものをだんだん作れるようになっていった。近所には素敵な日本茶喫茶店「たかね」に銭湯、しっぽりとした居酒屋など、落ち着いてじっくりゆっくり味わいながら楽しめる場所がいろいろあって、休みの日に近所でも一緒に楽しんだ。
私はその頃ファッションビジネススクールに派遣され、そこで出会ったこだわりのものづくりをする人々との交流を通じて、よりも渋いもの、奥深いもの、モノとの対話を好むようになっていった。老舗の喫茶店、昔からある店、民芸、自然、作り手の思い、歴史に文化、自分の命の範囲を超えたもの。
その頃からかもしれない、私の精神が彼を越えていったのは。もとより追い抜く追いこすようなものでもなかったのかもしれない。でも、もう、彼から学ぶことは学んでしまったような気がした。奥深い世に私は心を惹かれるようになっていった。
今は和菓子の販売のみ続けている、素晴らしい日本茶喫茶店「たかね」は、私の中の何かを確実に育んだ場所のひとつだ。私はそこで、「噛める」と錯覚するほど芳醇な日本茶があることを知った。小さな盆の上に、すみずみまで神経でを行き渡らせ、胃に収められるまでの儚い小宇宙のような美しさを表現することが可能なことも知った。たかねのご主人は定休日に様々な産地に自分で赴いて、目で見て感じて、一緒に収穫したり生産者と語らったりして、本当にこだわったものを仕入れて、プライドを持って菓子にして客に届けていた。40歳くらいに見える夫婦で、二人とも意思のある美しい顔立ちをしており、常連だからといって甘い顔はせず忙しそうなのを隠しもしないけれど、一人で静かに日本茶と菓子を陶酔するように味わっていると、コレいいよといって本や雑誌、温泉宿のパンフレットなどをついでのようにひょいとテーブルに載せていってくれる。
私はそこで、ヨーガン・レールというデザイナーのことを知った。夫婦は彼のWEBカタログのモデルとして出演していた。ヨーガン氏はポーランド出身で、世界を旅する中で日本の美しさに引き寄せられそのまま住み着き、自然をできるだけ傷つけないように配慮して、唯一無二の形を作り出そうとし続けているデザイナーだった。
彼の自然への敬意は凄まじく、それはものを作り出すという彼の仕事が、その尊い自然を、どんなに工夫してもどうしても傷つけてしまうという矛盾に対する苦悩とともにあった。彼の答えは、絶対に自分が欲しくて使い続けると思えるものしか作らない、ということだった。
たかねではヨーガンのデザインした茶碗で日本茶を提供していた。卵の殻ように繊細で、木の実から型を取ったような細やかなゆがみのある白い器。その器をたかねでは販売もしていて、あるとき彼が一緒にお茶を楽しんだ後にそれを買ってくれた。狂喜した。コレ、お前の好きな感じのやつだよね。そんなに高いものじゃないからね。そんなことを言っていたその時の彼が、少し寂しそうに見えた。お前が好きなのは、こういう世界なんだよね、俺にはわかるようで分からない世界だけど、というような。
結構長く付き合って、クリスマスや誕生日に何度もプレゼント交換をしたはずなのに、一番鮮烈に覚えているプレゼントはこの器だ。あとは付き合う前に自分で選んで買ってもらった小さな小さなシルバーモチーフのついたネックレスや、やはり自分で選んだか細いプラチナの指輪のこと。あとは何をもらったっけ。ああそうそう、ほんの少しサイズが小さくつま先が当たる綺麗なブルーのナイキのスニーカー。彼の趣味でもらったものは、あまり心に響かなかったのか覚えていない。
退屈を感じながらも、休みに一緒に出かけたりしたと思う。たまには旅行にも行ったり。山とか川とか海とかで、石や貝や種に反応する私を、「いいんじゃない」とか「お前は好きだよね」と、”ちょっとフシギちゃんだよね”という笑みを浮かべながら付き合ってくれていた印象がある。これはあくまで印象で、具体的な記憶には立ちのぼってこない。でもこれはきっと、私が彼が心酔するサッカーや野球に付き合っているふりをしつつも、実際は心動かず理解しなかったことと同じなのだろう。あくまで「彼の」趣味で、調子のいい時は一緒に行くけど、合わせている感じがしたし、疲れているときは嫌になった。お互いに、同じこと。合わせ鏡のように。
彼はしっかりしていて、仕事でも自分の意思を持って上司に可愛がられ、でも戦うべきとこは戦い、凛として、両親を尊敬してはいないけれど感謝はしていて、温かい家庭を作りたいと思っていて、浮気をするのは男の恥だと思っていて、でも家では適度にゆるんで、味わい深いものを好み、芯があり、笑いのセンスがあり、子供を持つことに憧れていて、低い声で、無駄遣いをせず、でも男の方が少しは多く出すべきだという漢気があり、適度に甘え、冷静で、声が低く自立心を持っていて、昔からの友達を大事にしていて、要するにすごくちゃんとしたいい男だった。初めての彼氏に、よくぞこんないい人を選んだなと自分で思ったりした。
私は彼に、すごく育ててもらった。ある時点まで。でも、もう、彼がいなくても大丈夫になった。結婚していたら、そのままの中で退屈でもなんでも、やりくりしながらなだめすかしながら、関係を続けていったと思う。けれど、まだ私たちは27歳だった。そして私にとってはまともに付き合った初めての人だった。3人目くらいの彼氏だったらよかったのに、と思った。充分愛した、と思った。嫌いなところはないけれど、未来がすでに透けて見えるようで、そしてもう他の道がなくなってしまうようで、彼と一緒になることは自分の外側に向かっていくエネルギーを抑えなくてはいけないことのように感じた。
彼は婚約指輪の予約に行ったのに、と言った。けれども、おまえを家族とかペットのようにしか見れなくなってきた、とも言った。あと、なんで俺ら別れることになったんだっけ、とも。これらの言葉は時間が前後しているかもしれない。27歳。なんでか分からないけど、7年後にまだお互いフリーだったら結婚しよう、と彼が言った。その言葉はその後、私をうっすら縛った。熟した実が、木にそのままなっていることができずぼとりと落ちて行くように、私たちは関係を終えた。
あんなによくできた人だったのに、私は彼と結婚しようとしなかった。そんな自分は女として何かが欠けているんじゃないか。これぞという人に会えないことを、そんな風に捉えようとしていた。その後数人と付き合ったけれど、いわゆる元彼が忘れられないということなのか、パーツパーツでは素晴らしいけれど、全体としてみると心惹かれる男性とは巡り合わず、いつも何かを棚上げしながら付き合っていた。そしてしばらく、男性と縁を持たなくなった。年齢的にも出会うのが難しい、世の中でも揶揄されたり焦らせたりばかりするような記事に取り上げられるような年齢になってきた。
Tと初めて会ったのは食料問題と昆虫食に関するセミナーイベントのあとの、薄暗いタイ料理屋での懇親会だった。小柄で華奢な体つきで、やや俯き加減で緊張しているのか少しオドオドした感じがあり、声が聞き取りづらかった。でも、ツルのデザインがさりげなく可愛いメガネをかけていた。
なんだかんだで仕事の話になると、私はスイッチが入りやすい。饒舌に今の会社のこと、やっていること、周りの人のこと・・・あとで聞いたら仕事熱心な、勢いのあるキャリアウーマンに映ったという。彼は植物に関する仕事をしていて、沖縄駐在のときにヨーガン・レール氏の家に訪問する可能性があったと話した。結局彼ではなく他の人が行くことになったのだが、それをきっかけに色々な話をするようになった。
植物にまつわる仕事をしているから、Tには種が好きという話をした。洗練された日本人の目に魅力的に映るものはほとんどないと思われる、西アフリカのトーゴで私が圧倒的に釘付けになった、すべらかな焦げ茶色で手のひらをを覆うほどの大きな種に穴を開けてそのままキーホルダーにしたお土産物の写真を見せると、シンプルに驚き、なんの種だろう、マメ科だと思うのだけどこんなに大きいなんて、と真剣に考察し始めた。
Tは子供の頃から昆虫が好きだった。中学の時は昆虫と並行して宇宙が好きで宇宙飛行士を目指したけれど高校で挫折して、その時に会ったナナフシの「卵」が持つ多様さに魅入られて農業大学に入り、昆虫学を続け、その知識が生かせる仕事に就いたのだという。仕事をした後もプライベートでナナフシの研究を続け、新種を発見し論文を発表した。ナナフシは地味な虫で、益虫でも害虫でもないからわざわざ研究する人がいないのだという。
「子供のころに好きだったものを、大人になると止めちゃう人が多いんだよね」
石が好きであることを話したら、Tはそう言った。
彼自身のこととして。
彼は昆虫を好きな自分をずっと引っ込めなかった。小学校の時はみんな好きだったのに、中学になるとみんな見向きをしなくなった。いわんや高校でなんて。そっぽ向かれた寂しさが伝わってきた。でも彼は続けたのだ。大学も、仕事も、それを持ち続けられるものを選んできたのだ。
「世界のタネ展」というのをやっているよ、と誘われ一緒に植物園に出かけたら、トーゴの謎の種は「モダマ」というマメ科の植物であることが判明した。すごく嬉しかった。日本のモダマも小ぶりで可愛いけれど、トーゴのモダマはそれが収まっていたはずの鞘のサイズを想像するのが恐ろしくなるくらい粒が大きい。
綺麗な石が落ちているらしいと聞きつけた伊豆のある海岸に、わざわざ出かけた。そこでTは華奢な身体を折りたたんでうずくまり、私以上に熱心に自分だけの石を探し始めた。「まだ誰も見ていないものがあるかも」と一段掘り出してまで見つけ出そうとしていた。私は表面に出ているのも必然の一部と感じ掘ったりしたことはなかったから、その執着ぶりに驚いた。
伊豆のその海岸はさすがに石好き達がブログに取り上げるだけあり、非常に個性的で魅惑的な石ばかりが落ちていて夢中になった。視界に入るもののどれにも心惹かれ、途方に暮れてしまう。一瞬のうちに湧き上がる無数の判断軸に反応しながら、「君もいいね、うん君もいいね」とつぶやきながらどうにかしてあえて選んだ十数個を、持参した手ぬぐいの上に並べ撮影しながら、自宅に持ち帰るべきはどれなのかを吟味した。
昔は拾ったものを全て持ち帰っていたが、家に帰ると色褪せて見えるものがあったり、置き場所に困ったりした。水気のある川や海での輝きと、そこから離れた都会の室内での見え方は如実に違う。一番美しく見えるのは元いた場所であり、しかもそこにいればそのまま徐々に砕かれ砂となり、ゆっくりと循環していける。そんな場所から引き離してでも自分のところに持ち帰るのであれば、大事にしなくてはいけない。そう思って、持ち帰るべきものを自分に問うて選ぶようになった。
Tはそれまで、意識的に石拾いをしたことはなかった、と言った。
でも彼の選ぶ石は、彼の美意識と判断基準で丁寧に選びとられ、美しく、私は初めて石拾いにおいて嫉妬を感じた。
彼は昆虫や植物を見る目で培った、細かい特徴を瞬時に見分ける力を持っており、そこに自分の好みの基準を重ねていた。私が似たような石を集めて悩んでいる間に、これはここの部分がこう気に入ったから、と幅広い異なる種類の石たちを集めていた。
「いや〜、石拾いがこんなに面白いとは」
9年間付き合った彼が別れのときに「一緒に楽しめる趣味がもっとあったらよかったかもな」とつぶやいた。時折出かける旅行はすごく楽しかったけれど、非日常のイベントだけで日々を維持するのは簡単じゃない。
だからたしかに、と思う反面、たかが趣味、とも思っていた。それぞれの好きなものをしっかり持って、それを尊重して邪魔さえしなければ、別にそれをお互いに共有できなかったとしても問題はないような気がしていた。
でも、ここまで書いていて思うのは、やはり好きなものというのは”ただの趣味”という呼び方が示す、あってもなくてもいいもの、では決してなく、自分にとっての大事なものの見方や、美意識につながっている。そこを、深く、理解してくれる人を私は求めていたのだと思う。
Tとは来年結婚する。これはTへのラブレターであり、ちゃんとした人なのに万全に愛せなかった自分は欠陥品なのではないかという、うっすらとした罪悪感の残りかすのような、9年をともにした彼への気持ちでもあるみたい。でも、あの彼と一緒にならなかったのは、自分の一番大事にしている部分をわかってもらえない寂しさが、未来永劫続くことが見えていたからかもしれない。別れてから一度も連絡を取っていないその彼は3年前に結婚し、子供も生まれたとサークルの仲間から聞いた。彼のほしかった子供。聞いた時はショックを受けたふりをしたい気がしたけれど、そんな自分を悲劇のヒロインのこじらせ女子をを気取って、出会いがない言い訳のネタにしたいだけだなと、冷たく見てもいた。
三つ子の魂百までというけれど、思ったよりも私は石とともに生きてきたみたいだ。
自分の人生にも、パートナー選びにも。
「私の大事な石」というタイトルから書き出したのは、手のひらに転がるひとつの石のことだけでは、なかった。