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「石が好き」と言い始めるようになった話

ごつい黒の中に、虹色のメタリックな光が混ざり、自然のものとは思えない硬質なきらめきを放つ石。直径5センチくらい、砕かれたコンクリートのように尖った、つまりいわゆる普通の石ころのフォルムに、見たことのない色と光が宿っている。正方形のプレートの上に乗せられた、同じくらいの大きさの石が整然と10個ほど並び、小さなスポットライトを当てられ、それぞれの色に輝きながらも奇妙な静けさを持って鎮座している。

ABCカーペットというなんだか単純なイメージの名前とは裏腹に、アジアや中東、北欧など幅広い文化の洗練されたインテリア雑貨・家具を扱うニューヨークの巨大なセレクトショップの1階で、小走りで通り抜けた通路沿いのガラスケースに収められていた鉱物たちだった。ものすごく後ろ髪を引かれた、なんだこれは、こんなものが存在するのか、もっとよく見たい、信じらんない。

けれど私はその時、社長と数名の役員の先頭に立ち、この1Fフロアの奥にある雰囲気がすばらしい”らしい”レストランへ、予約時間に遅れてはまずいと早足にご案内している最中で、私が見たいもののために立ち止まっていいタイミングではなかった。

約5000人の社員を抱える小売企業の社長の細井は、ニューヨークの投資家への決算報告まわりをする合間の時間に、せっかくだから現地の小売を始めとする新しいもの、支持されている場所やお客さんの様子をみて回り定点調査として活かしたいと考え、調査担当として私と同僚のユマが同行することになった。細井はすらりとした品の良い人でかつ細やかな感性があり、せっかくの海外だから取引先との接待ゴルフのために1日空けておきたいなどとのたまう他の役員達とは雲泥の差で、この会社で一番偉い人なのに、自分の目で見て触れて考えたり確かめたいという、私にとって近づくほどハッとさせられる人だ。

ユマと私の仕事は、現地で見るべき場所やものを事前にできるだけリサーチし、行程を組み、予約が必要なものは手配し、細井たちが投資家を回っている間に現地で下見をし、限られた時間の中でここぞという場所に案内し、そこで得た気づきを後日プレゼンテーションにまとめ、社内で共有することだ。この内容が、その後の事業の方針の裏付けの事例にもなっていく。

ただ、視察先の情報収集よりも難しいのがレストランを決めることだった。創業家の三代目である細井は子供の頃から裕福な暮らしに触れている反動からなのか、”いわゆる銀座系の高くて格式張った店”が嫌いで、投資家まわりの行程をアレンジしている金融機関の営業担当のおすすめの高級レストランリストに全く関心がない。現地の人が集まっている雰囲気の良くて美味しいお店に行きたい、少し変わっている料理を出して、美味しいワインが飲めるところがいいらしい。ユマとWebの情報やブログ、雑誌、美味しいもの好きの知り合いとの繋がりなどを駆使して候補を探し、予約は金融機関の方にお願いする。苦労したものの、どこも記憶に残る素敵なお店ばかりに辿り着くことができた。

ABCカーペット併設のレストランはその中でも予約条件が厳しく、時間に遅れたら次の客に回すと言われていた。前の行程が押してしまったので、とにかく急いでいた。
実はこのレストランでは、全体として非常にスムーズだった出張の中で1、2番を争うトラブルが起こり、私にとってはNYで生き抜くために必要な力を強烈に見せつけられた時間だったのだが、その話は割愛し、とにかく無事6人でゆっくりと食事を楽しむことができた。そのあと上層階から店内を見てまわり、1階に戻りあのガラスケースの前を通って出口に向かった。

帰りは列の後ろにつき、遅れすぎないように見計らってガラスケースを覗き込んだ。黒い石の表面に、自然と人工が入り混じったような細やかな輝きを放つ石。似ているけれどひとつひとつ違う形。他にも、宇宙から採ってきたのではと思うような、虹色のギラギラとしたメタリックな結晶(後日、人工ビスマスと知る)や、小ぶりの箱に品良く収められている鉱物たちに、$35とか$50とかの小さなシールがつけられている。買えるんだ、これ。一緒に展示されているアンモナイトとか、小さな切り株だとか、ケースの中のディスプレイも含め全てが魅惑的な小宇宙のようで、見れば見るほど吸い込まれ目が離せなくなる。でも一行は、次の場所に向けて着々と出口に向かっている。この後の行程を考えても、滞在中にここに戻ってくる時間はもうない。

「ミネラル、いいよね」
1Fで見かけた鉱物が綺麗でびっくりしたと雑談で話した時に、細井が自然な調子で言った。ミネラル。鉱物に慣れている人はそう呼ぶのか、と思った。
「ミネラルショー、行ってみるといいよ」
饒舌な感じでも決めつけるようでもなく、ごく自然に、好きなもののことを話すときの話し方に感じだ。行ってみればわかる、というそっとした伝え方だった。

石は、子供の頃から好きだった。石を拾ったり、ずっとしゃがみこんでひたすら砂だんごづくりに集中していた記憶があるし、母親にも、毎日幼稚園から嬉しそうに石を握りしめて帰ってきていた、と言われた。
 小学校に上がってからも、川が磨き上げたすべすべの石によく惹かれたし、サウジアラビアの赴任から戻ってきた友人家族のお母さんがくれた、瓶に詰まったオレンジ色の砂に驚いて、砂がこんな色の国があるんだ、とみるたびに瓶を回して透かして驚きをもって眺めていた。この瓶は今も私の棚に飾っている。石や砂と同じように、種や貝殻なども好きで、お土産屋さんで何か買うよりもこうした好きなものを見つけて持ち帰れる方がずっと嬉しかった。

いつからだろう、石から離れたのは。
小学校高学年くらいからのような気がする。自然に触れることが少なくなり、中学に入ってからは原宿系のファッションに目覚め、身を飾るもの、綺麗に見せるものに夢中になり、デザインや建造物など、「人が作ったもの」に関心が移っていった。その定義は石ころには当てはまらなかった。

思い返せばその後少しずつ、やっぱり石が好きだなと思うこと、心が動くことがハイライトで思い出される。葉山の古民家でのヨガのあとに寄った一色海岸の惑星のように色とりどりの石たち、驚くような日本茶を出すお店で見せてもらった、石を拾うためにだけに海外にでかけてしまうデザイナーによる石の写真集、出張の合間に寄った高知の海岸の白い歯のような石、誰もいない長野の山の川沿いで思う存分作った砂だんご。

それらはいつも、一人のときだった。一人で思う存分、探し、拾い、並べ、迷いに迷い、これぞという持ち帰るものを決め、残りは写真にとって後日にやつきながら眺めた。黙々とした、とんでもなく豊かな時。
海に入るよりも砂浜で貝を拾う方が好きと言うと、相手が少し固まるのを感じた。そうだよね、と思う。残念と言うよりは、自分は実は個性的なのよとアピールしたくて言っていた気もする。話は通じるけれど、やっぱり自分とは違うと思う人に、わざわざ。同意してもらえると思ったことはなかったし、同意を求めていたわけでもなかった。普通は関心ないよね、ということを確かめておきたかったような気がする。

思い返せば細井は、私にとって初めて会った、生身でダイレクトに石の良さを知っていて楽しんでいる人だった。ミネラル・鉱物には馴染みがなかったけれども、石ころの延長の大人版という感じがする。地続きだ。こんなにビジネスに投じている人が、趣味として石を好きでいられるのかと衝撃だった。そんな人がいたのか。
鉱物のことを少しずつ調べ始めると、店、本、イベント、また鉱物を見ながらお酒を飲むバー、カフェ、鉱物に見立てたお菓子、素敵な石スポットでみんなでひろうワークショップなど、ふたひねりぐらいしたカルチャーがあることを知っていった。石好きにこだわりと美意識を混ぜ合わせて、多少の偏屈さとストイックさを持って展開している人たちとそのファンが、こんなにいるとは思わなかった。

めでたし、めでたし。



というわけでもない。
そういったものたちに触れ、出かけて楽しんで、それらはたしかに私の生活を彩った。真似をしてコルク蓋のガラス瓶にこれまで拾った石や砂を入れて並べてみたり、鉱物と一緒に石やタネを見える場所に堂々とディスプレイするようになった。
自己紹介を求められた時に趣味の一つとして石好きをあげ、世の中のそうした活動の経験をいくつか話したりした。ちょうどよいネタになったのだ、色々なところで。

でも、鉱物にまつわる知識は一向に覚えない。化学と分類法できちんと整理されている。それらを知るともっと面白いはず。元素、光、硬度、分類学、産地、地層、そして地球が生まれた時代からに遡るはるかな歴史。ものすごくたくさんの要素が詰まっていて、知的好奇心の高い人には永遠に楽しめる世界なのではないかと思う。
でも私には、面倒臭かった。こんなに、あるのか、背景が。解明されたものや研究されたもの、そして今も現在進行形のもの。すでにそうした人たちがうんといる中に入っていくようで、それはおっくうに感じた。

「石が好き」=鉱物も含めて好きで、それで知識もあるしいろんなところに顔だして、人とは違った楽しみをしていますよって、ちょっと誇らしげに言いたい気持ちがどこかにあるような気がして、これは「わざわざ」言いだした感じがちょっと混じっていて、なんだか時々ほんのり落ち着かない気持ちになる。

細井に、媚びる気持ちがあるんだな。
細井とはあのあと、ミネラルのことは何も話していない。ミラルショーに行ったことも、もしかしたら今風に言うと私が「石活」と呼べるような活動をしていることも、そこで石にまつわりいろんな活動を展開している人を知ったことも、彼は知らない。

でも、いつか、何かの拍子に話したいと思っている。そこには純粋に石のことで盛り上がりたいという気持ちの底に、認められたいという不純な気持ちが混ざっている。のを、この文章を書き始めて気づく。だからといってそんな卑屈にならなくてもいいかもしれない。あのガラスケースの石たちに、いままで知らない世界を教えてもらったのは本当なのだから。そしてそれがあの店だけではなくて、「ミネラル」と呼ばれるくくりで様々に展開されていることを知ることができたのだから。

でも、私には理論や背景はどうでもよくて、美しいものにびっくりしてただただ舌舐めずりして眺め回して、自然がつくったすごさをただ堪能していたい。そこに、他の人はいらない。

私は細井の会社で新卒からもう15年働いているが、2年前から希望してベンチャー企業へ出向している。みんな若くて、目的意識があり、行動力があってビビッドだ。出向元も出向先も、誇れるものの多い良い企業で、その両方の良いところ・悪いところを味わっていると思う。


私は、心細い。

大企業にいて乾いていた部分を、ちゃんと潤わせる世界があることを知った。その中で、やろうと思えばできることを見た。でも動けない。身を投じきれない、不確実なものを信じられない。何かしている、というよりも”見ている”と言う感じ。心が当事者になっていない。
かといって、出向元の世界には、またふたたび進んでがんじがらめの中に入っていくしか、生き延びるすべがないと思い込んでいる自分が見える。

「サキは私よりずっと”体幹”が強いのに、どうしてそんなに不安そうなんだろうね」とミエに言われたのが刺さっている。ミエは会社の同僚で、細井の次に出会った、生身の石好き人間だ。正確に言うと地理や地層マニアで、一緒に長瀞に地層を見に行った。会社の人とプライベートの時間を過ごすことは滅多にない私には、もうそれだけで大ごとだ。彼女は大局の目で捉えて、知識もあり名称もスラスラ出てくるし解説してくれる。かといって頭でっかちではなく、すごい切り取り方で写真を撮る。長瀞で私たちは、想定していた3倍の時間をかけてじっくりじっくり味わいながら地層と岩畳の川沿いをすすんだ。たくさんの人たちが私たちを追い抜いていった。気づいたら夕暮れだった。

悠然とした長瀞の地層に囲まれていると、石は個別のひと粒ではなくて、地層の一部、大地の一部であり、人間とか社会とか文化ができるずっとずっと前に、そこにあるべくしてあるようになったものであることが、身体を通じて理解できる。時間軸でいうと、私たちよりとんでもなく先輩。
ミエの解説も相まって、より理解できる。彼女とは同じ場所にいても楽しむ視点が少しずれているから、安心して違いを楽しめる。重なっていると、比べたり自分の方がいいと思いたがってしまい自分でも嫌な気持ちになる。

ミエは賢くて多動で行動的で、感性もあって、人に気づきを与え、地層のことも彼女にとってはワンオブゼムなのに造詣が深くて、美味しいものも面白い人のこともよく知っているし、かつそれを伝えるのが上手。彼女には、私が何に困っているのかが見えている。彼女が勧めるものは、いつも驚くほど私に力を与える。

その彼女が酔っ払って、帰りがけに駅に向かう途中で言ったのだ、どうしてそんなに不安なんだろうね、と。不安そうに見えているのか、ということが思いのほかショックだった。そう言われたこと自体にではなく、やっぱりそう見えるんだ、という自己認識の再確認として。自分でも出向先と出向元のどちらにも安心していられる居場所がないと感じていること、真逆の価値観を持つ両方の企業においてそう感じるということは、社会人として自分が通用するところなんてないんじゃないか、ダメな人間じゃないか、そして自分のことをそんな風に思っていることが、やっぱり他人にもそう映るのだなと。

一方で、どうしてなんだろうねという言い方に、本当は不安でなくていいんだ、不安なんか感じなくて、ただ自分が堂々としていればいいんだという、私が悪いわけじゃない、自分を認めて自分なりに自分を信じてそこにいればいいんだ、だってすごいところたくさんあるもの、色々頑張っているもの、他の人だったらもしかしたらできなかったこともしてきたじゃない。自信を持つ価値があるよ、というのは、「でもやっぱり誰かに認められたいんだね」という自分を批判する気持ちと表裏一体での、希望。
彼女は「私は鎧をまとっている。でもサキは体幹が強くて、鎧なんて必要ないのに、どうしてそんなに不安なんだろうね」私の体幹。彼女は私の何を見て、そう言ったんだろう。彼女には、私の見えていないものが見えている。今回も、また。

自分の気に入った石を、偶然の中で見つけて、自分の感性がぱあっと開いて黙々と自分の中で感動して、ずっと見つめて。

そういうことだけで、生きていけたらいいのに。
”鉱物が好き””こんなお店を知ってます””こういうところに出かけます”なんてわざわざ肩肘はって言わなくても、いい。そんなことをしなくてもいいところで生きていけないだろうか。そんなのは甘い、そのために何かしているかていったら、していない。また自分を刺して引き戻す。

ああ、だけど。鉱物にまつわることになると、自分だけではできないつまらなさを感じてもいるんだ。自分で掘りにいくのはかなり難しい。誰かが掘って、誰かが仕入れて、誰かが運んで、誰かが値付けしないと手に入らない。そうすると結局お金が発生する。石を好きな気持ちが、結局「買う」という行動に集約されることが、嫌なんだ。誰かのフィルターがすでにはいっているもの。誰かが選び取った中から「自分で選んだ」気持ちになること。すでに用意されたテーマパークの中で、誰かの想定の範囲で楽しまされているようなつまらなさ。そのセレクトをしてくれた人の感性を感じることはできる。そこに敬服することはできる。けれどそれは、すでに用意されたもので、自分で選んだものじゃない。

出向期間は次の4月まで。あと8ヶ月。出向先・出向元、どちらでもいい。誰かに成長したね、よくやったね、これは助かる、変えたね。そう言われたい。
でもわかってる。そんなこと言われても、嬉しくない。自分でそうだと思っていなかったら、その対面している瞬間だけの喜びで、根っこではまたずっと”不安”でしかない。自分で自分を苦しめて息を潜ませるしかない。
出向から戻る部署は99%わかっている。3年も出向したのだから、そこで得た経験をその部署に活かさなくてはいけない。1年間は還元しなくてはいけないだろう。でも、その先は。内側から湧いてくるものは何もない。

もともとの、自分で見つけた石を綺麗だと存分に感動する自分のことを中心に据えることで、目が開いて、胸骨の奥が苦しく熱く爆ぜていくような、少し頭がおかしいけれども周りのことなぞ気にならなくなるような生き方が、もしかしたらできるんじゃないかと、何かに挑戦する億劫さと天秤にかけながら、これがいわゆる”本当の自分探し”のような甘えによる時間の過ごし方ではと自嘲する気持ちとないまぜに、でも沸騰して蓋をバタバタと押し上げて吹きこぼれそうな鍋の気持ちで書きはじめて、途中で止まってまた今朝続きを書いて今ここまでで7000文字になった。まだまだ書けるけど、このまま続けてもbeating around bush、核心には入りきれない気がする。

これは私の石好きをおそらく理解しなかった、私の初めての恋人のことを書く前の、下ごしらえなのかもしれない。