志貴皇子
2003年11月、万葉の会で、生駒・香具山・耳成山を尋ねました。
天智天皇の大和三山歌
『(13)香具山は畝傍(ウネビ)を愛(お)しと耳成と相争いき・・』
は、大海人皇子と額田王の2人の仲を何もかも知っていてあてこすりのうたを作ったと書いている本もあります。
そこで、大和三山を尋ね歩き、いつもそうですが2日間は万葉の会で先生の説明で案内してもらい、3日目を自由に行動することにしています。
そこで、妹と2人志貴皇子の田原御陵を尋ねました。
『(1418)岩走る垂水の上のさ蕨の
萌えいずる春に なりにけるかも』
このうたが、何とも語呂がよく、春の来た喜びを素直にうたっている大好きなうたです。
志貴皇子は天智天皇の七番目の子で、壬申の乱の後、大津皇子の様に謀反の疑いをかけられない様、政治の中心から離れ、静かに時代を生き抜きました。
子供の49代 光仁天皇、50代 桓武天皇とつながったわけですから、政争にまきまれない知恵に感心します。(天武系から天智系にうつりました)
奈良駅から田原御陵までバスで、行きはよいよい帰りはこわいと、うたの通りになってしまいました。帰りのバスが、あまり覚えてはいませんが、多分何時間もなかったのだと思います。
土日だったと思うのですが、近くの会社に入って行き、一人しかいなかった人に奈良へ帰る道を聞いて、適当に歩き始めました。
毎回あまり緻密に計画は立てず、帰りの新幹線にあわせた大雑把な計画で、20年も前の私は60才になったばかり。妹は8つ下。
まだまだ歩けた年令、でもコンクリートの道路で車の通りも少なく、一時間ほど歩いていつ奈良の中心につくかわからぬ無計画ぶりでも、白豪寺には寄るつもりでテクテク・・・
そしたら一台の車が止まって
会社に帰ったら同僚が、女性2人が奈良まで歩くと道を聞かれた(年寄り2人とは云っていなかった)と云ったけど、奈良までは大分距離があるから大変だと、乗せていこうと思って追いかけて来たとの事。
あれから20年、今の時代では、ホイホイと乗ってしまうなど考えられないけど、その頃は人を疑わなければならない様な時代ではなかった(たった20年なのに、よい時代だったと思います。)
ありがたく乗せてもらい、親切に白豪寺まで行ってくれました。
車でもかなりの距離を走りました。ありがたかった気持ちを少しだけ御礼を包んで、降ろしてもらいました。
万葉の旅ではいつも地方へ行くと、人の温かさを感じ、幸せな気持ちで帰ったものです。
今から思うとまだまだ意欲満々、新薬師寺・興福寺をまわりおかげで新幹線は予約していたものには乗れず、自由席で帰りました。
次は、磐姫皇后(いわのひめこうごう)