見出し画像

磐姫皇后(いわのひめこうごう)

彼女は仁徳天皇の皇后、万葉集の最も古い歌人です。

『君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづね
 迎えか行かむ 待ちにか待たん』

恋しい男の訪れをじーっと待っている古風な女性を思わせるけど彼女は格別に感情の激しい女性だったとのこと。

仁徳天皇は、色好みの男、そして彼女は彼に対して猛烈な嫉妬を燃えたたせた。
(余談だけど、しっとという字がなぜおんなへんなんだろう)
皇后はある年の新嘗の宴会の準備に柏の葉をとりに紀州へ船で出かけました。
その留守に天皇が他の女性を宮廷に召し入れたと聞いて、皇后はそのまま淀川をさかのぼって山城の筒木の宮に入り、天皇の迎えを断り続けて難波の宮に帰らなかった。

だけどあの時代、一人の天皇に何人もの女性というのはあたりまえだった様に思うけど、でもがまんできないよネ。彼女は女の意地をつらぬいた。
それで幸せだったかどうかはわからないけど・・・

2006年9月、妹と佐保 佐紀路を歩きました。

法華寺



その当時のチェット

(万葉集最後の歌人)大伴家持の邸宅があったというあたりから出発。
北に行くと磐姫皇后の御陵がありました。

彼女は山城にこもる前に、奈良山から遠く南の方の生まれ故郷の葛城の地を望んで



風の森附近

歌を詠んだ、という紀紀の伝えがあるそうで、奈良山の上にお墓があるのは、そのためかと云われています。
仁徳天皇陵と離れているのも女の意地をつらぬいた結果?
今までいくつかの御陵を尋ねたけど、随分大きい様に思いました。帰ってから天皇の系図を見て、仁徳天皇と磐姫皇后には息子が3人いて、3人が天皇になっていたのでそれであんなに大きな御陵だったんだと勝手に納得いった次第です。
御陵を尋ね歩いていると、見えてくるものがあります。
天武天皇の御陵は持統天皇も一緒。持続天皇が望んだらしい。
聖武天皇と光明皇后は、隣あわせ。色々あっても信頼しあっていたんだと勝手に推測しています。
天武天皇には、女性は沢山いたけれど、持続天皇は、天武天皇にとっては自分が一番という自信があった様に思います。
  写真は、1998.5月8.9.10日で葛城古道を尋ねた時のものです。
   次は有馬皇子

いいなと思ったら応援しよう!