遺書を書いておこうか。
明日、死んでも大丈夫なように。
ひさしぶりの投稿だというのに物騒な書き出しですみません。
当方、緊急事態宣言の出ている地域の医療従事者です。
自院ではまだ新型コロナの患者さんは出ていません。
しかし、ふだんやりとりのある医療機関が最前線で治療にあたるニュースを毎日、目の当たりにし、決して対岸の火事ではなく明日の自分の姿かもしれないと。そう感じる日々です。
今日父と母と久しぶりに電話をした。
「今年は帰れないかもしれない。」
そう言う私に、父は仕方ないね、と笑った。
こんなことなら、もっと実家に帰っていればよかった。
還暦のお祝いだってするために少しお金を貯めていたのに。
会うことすら叶わないとは想像してもいなかった。
普段から生死が隣り合わせの現場で勤めてはいるけれども、だからといって自分自身を侵してくるものではないと思っていた。
社会人で一人暮らしを始めてから良くも悪くも「自分だけのもの」が増えた。
マンションの契約書、専門職の各種協会の会員、個人年金…親にも軽くしか伝えていない自分自身が契約したいくつもの関係がある。
明日死ぬようなことがあったとしたら、この自室の整理やそれらの契約の後始末は親にしてもらわないといけないわけで。
それにはある程度そういうことも書いてまとめておかないといけないわけで。
いや、そんな事務的なことだけでいいのか?
他にも伝えておかないといけないことがあるはずでしょう。
ああ、そうだ。
遺書を書こうかな。
考えすぎだと笑われてしまうかもしれない。
だけど、ほんの半年前には誰も予期していなかったであろうことが起きている。
5月初めで収束することはもはや絶望的だと感じている。
数年単位で対策が必要という声もある。
その間、最前線の自分自身や、大切な家族や友人が犠牲にならない保証などどこにもないのだ。
今回のコロナはたくさんの人々の人生観を変えるものだろう。
私もそのひとりであるのだろう。
遺書を書くことは決してマイナスな行いではない。
死を考えることは、生を考えること。
明日死んでもいいように、遺書を書こう。