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佐藤康光九段【将棋のこと】

私は将棋を観るのが好きだ。
そして山崎八段ファンです。

先週のアベマトーナメント、フルセットまでもつれ込んでは最終決定局で向かい合っていたのは佐藤康光九段と森内俊之九段でした。共に50歳を過ぎた大ベテランにしてレジェンド。そんな二人がベテラン不利の超早指しでも若手に託され勝負局を戦っていました。将棋は超力戦で優劣不明。ただ序盤に康光九段が大ポカをしたように自覚している仕草があり、森内九段も同様に感じている様子。解説者も同じく見立てたようですが評価値だけが言うほどポカではないと少ししか動かない。実際、思うほどに良くはならないと思案顔の森内九段と、思ったほど悪くもないかとアヤをつける康光九段。終盤になるほどに何が何だかで、第一人者が二人して必死になって時計を叩きまくっていました。

そんな姿を観て私は感慨に耽っていました。感動したとは違うし、羨ましく思った訳でもない。素敵でも、面白いでも、泣けてくるともやっぱり違う。ただ子供の頃から知る仲であろうお二人が地位も名誉も手にした上でまた、子供のようになって将棋を指している。本来は遊びである将棋。勝負としては大一番かもしれませんが、パンパンパンパン時計を叩いては負けるものかと必死になっている姿は、夢中になって遊ぶ子供と何ら変わりがない。歳を重ねてレジェンドにまで上り詰めたお二人が、今なおこのように無垢にすら感じる様子で将棋を指している姿を観て、言葉にはならない、言葉には出来ない、ただただ感慨に耽ったとしか言いようがない気持ちになりました。

大ポカではなくとも、その手の悔いを振り払って猛追する康光九段。絶対に負けまいといつもにも増して慎重な指し回しで受け捌いた森内九段に後一歩が追いつかず。両者、投了後は精も根も尽き果てた様子でしたが、照れくさそうにも見え、晴れやかなようにも見える。何ようにでも見て取れる盤を挟んだツーショットに、御両人でなければ成り立たないであろう趣を感じて、またもや言葉には出来ない余韻に耽ってしまいました。

先日、会長職を任期満了にて退任された康光九段。正直に言えば佐藤会長と呼ぶ方が未だしっくりきます。ソフト使用の冤罪事件という誰もが拾いたくはない火中の栗を拾うタイミングでの会長就任。まずは頭を下げることから始まった会長職は、ソフトとの共存方法も手探り状態の史上尤も先行きの見えないスタートだったと思います。そんな矢先、今度は史上最高かも知れない天才が突如現れる。将棋界の歴史の中で類稀なるマイナスとプラスが同時発生したこの難局を、棋風さながらの剛腕で指しこなしてみせた佐藤会長。天才の成長と活躍を大いに守りながらも、この機は逃さず多くのスポンサーや支援者を獲得していく。新たなる企画や棋戦を立ち上げては、対局内外にて棋士が潤う環境をも増やした。将棋会館の移転・新設という大事業にも尽力して、その集大成というべき華やかな完成披露は棋界の顔である羽生新会長へと繋いでいく。その周到さ、潔さ、慎ましやかさ、まさに名会長だったと思います。

それでいてA級にも残り続けていた前会長。私が最初に見た康光九段は王将のタイトルホルダーでした。ただ、その年の王将戦で渡辺九段にタイトルを奪われてしまう。そしてこれが現状最後のタイトルとなってしまった。だから康光九段の全盛期を私は知りません。強いことは勿論解るのですが、その本当の実力、凄味のようなものは観ることは出来ないのだろうと思っていました。でも、ここ数年の会長、もとい康光九段は凄まじかった。全盛期の実力とは違うのでしょうが、その凄味は十分に感じられました。羽生九段ですら振り落とされたA級での争いを世代最後として奮戦するのが康光九段だとは正直思わなかった。それも会長職の激務と並行しながら。研究不足は力戦で補う、言葉で言うのは容易いですが成し得ることは不可能だろう作戦で戦い抜いていく。剛腕な将棋が持ち味と言われていますが、康光九段の指した将棋こそが剛腕と表現され得る将棋なんだという気がしてなりません。

奮戦及ばずの降級で、今年からは鬼の棲み処が戦場となった康光九段。重責の荷を降ろして軽くなったであろう肩で振り回す新たな剛腕に山崎八段を想うと心配ではありますが、大いなる楽しみでもあります。名人獲得者で永世棋聖で名会長だった康光九段。それでいて盤の前では今なお無垢なままで戦う姿を見せる佐藤康光九段。今になって、ふとあの感慨の気持ちが言葉として浮かびました。あの時の私は「天衣無縫」に酔い痴れていたのだと思います。


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