返事が楽しみなこと
2ヶ月ほど前だが、5年以上ぶりに父方の祖父母宅に行った。
祖父は約10年前に他界している。
祖母は現在91歳で、来月で92歳になる。こういうことを言うとても縁起が悪いが、いつ死んでもおかしくない心臓と血管の持ち主。
祖父に先立たれた後の祖母はしばらくは1人で暮らしたり、介護を必要とするタイミングで伯母宅で伯母と暮らしたりしていた。
昨年からは退職した私の父が、実家である祖父母宅に戻ったため、そのタイミングで祖母もまた祖父母宅に戻り、今は私の父と2人で暮らししている。洗濯や料理の支度などの家事は勿論父がメインで進めている。
久しぶりに足を踏み入れた祖母宅は、自分の記憶の中の祖母宅よりもだいぶ物が少なくなっており、おそらく終活や生前整理と呼ばれる行為が着々と進められていると察せられた。
ここまでの情報を切り取るとただ寂しい、悲しい気持ちになるだけだが、祖母や父の様子を見ているとそうでもなかった。
病院や施設で寝たきりではなく、自宅で誰かと一緒に笑って過ごしている。
少し食事制限はあるけれども、食欲旺盛で、自分で箸を持ってモノを口に運んで噛んで食べられて、おいしいものをおいしいと感じられて、「明日心臓止まるかもしれないから」なんて年寄りジョークを飛ばしながら、料理を味わっている。
長距離は歩けなくても家の中のちょっとした段差を含める室内も自力で移動できて、立ったり座ったりも「よいしょ」と踏ん張りながらできる。
新しいことを覚えるのはハードルが高いが、昔のことは忘れておらず、コミュニケーションはしっかりとれる。また急に家を飛び出したり、奇声をあげたりなど突飛な行動もしない。
また、家事も父にやらせっぱなしではなく自分ができる部分はまだ自分でやる!といった感じで食後はすぐに椅子から立ち上がって、流しに立って皿洗いをやっていた。偉すぎないか。
身体能力の衰え方の部分は人それぞれなので、この文章を見て「あなたの祖母は運がいいだけ」と思う人もいると思う。その考え方も勿論間違ってはいない。けれど、祖母自身の努力もあって、この状態で90代を過ごしているとも同時に強く思う。
不謹慎なことばかり書いているが、祖母を見て「私もこういう最期を迎えたい。」「こんな終末期を過ごしたい。」と思った。
1つどうしても悲しくなってしまったのは、祖母が結構な頻度で「ごめんね」と言うようになってしまったことだ。
例えば、鼻をかみたいが微妙にティッシュが手の届かない距離にあると、「立って移動して取りに行くのめんどくさいなー」といた感情を抱く人も多いだろう。そんな時テッシュと自分の中間地点に人がいたら、「ねー、ティッシュとって」と伝えて、橋渡ししてもらわないだろうか。家族や仲のいい友達のとの距離感なら、尚更。
そういうちょっとしたことに対しての反応が数年前の祖母なら「ありがとう」だった。
この例で言うなら「ティッシュとってくれて、ありがとう」なのだ。
しかし、今の祖母は「ありがとう」のほとんどが「ごめんね」に変わってしまっていた。聞く回数を重ねていくにつれて、私もちょっとずつ心が痛んでいく。
「何にも謝ることないよ」と伝えても、やっぱり祖母は謝ってしまう。もう癖になっているのだ。
「ありがとう」が聞きたくなった。
「してもらった」「させちゃった」と少しでも思わせたら多分ダメ。完全に100%私が自発的に行っていることだと祖母の中で確信が持てないと、なかなか「ありがとう」は聞けないだろう。
少しでも多く、前向きに、「ごめんね」ではない言葉を、言ってほしい。
そして、小さなことから始めようと、2ヶ月に一回祖母に手紙を書くことにした。そして今1通目をポストに投函してきたところだ。
電話で返事が来るか、手紙で返事で来るか。
どんな反応をしてくれるか。
楽しみだ。
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