宗教学について①

 2021/4/5 寄稿

 さて、思いが届くはずがない相手に届いてしまった不思議や、「祈り」や「第六感」という感覚的なもの、これらを説明するためには、人類学的・宗教学的な要素が必要なのであって、実際に研究対象になされているんですね。恐らくそこに意識が開かれるか否かで、私がこれから述べることを受けとめてくださるかどうかが、変わってくる気がするんですね。それは、とりもなおさず現状では中々説明できないことで悩んでいる人や驚いている人への、取っ掛かりになればというのが私の願いです。そうした意味でも、どうか引き続き読んでいただきたいと思います。

 ひとまずは今回に、宗教学の観点からです。

 私の考えを述べるその前に、何故霊性主義に対して拒絶反応を示す方が一定数おられるのか、全く個人的な考察をしてみます。まず、得体が知れないこと(これは学説が広がっていないことに比例すると思っています)、霊性主義者はどこかキラキラした印象で、強引に思想を進めてこられるような印象が一般的にあることが挙げられるかと考えます。当然そのような方とはまた異なった共同体が太古の古い歴史から積み重なっており、その意味でも私は、学説に基づいて丁寧に記述する必要があるように感じています。


それでは、いきますね。


 まずは、人類学あるいは宗教学に基づくシャーマニズムやトーテムについて述べる前に、アニミズムについて述べなければなりません。原始宗教の本質はアニミズムだと言われています(マナイズムという学説もあります)。アニミズムは、人間、動植物、無生物に至るまで、それぞれがそれぞれの霊魂を持ち、作用をもたらしているという概念です。そしてその霊魂はそのものと離れても存在し、それ自身死滅することはないと言われています。なんだか死と再生を彷彿とさせますね。私たちの基盤を作ってくれた未開社会や太古の先史時代においても、森羅万象に精妙な霊力が宿ると思われ畏敬していました。タイラーは、あらゆる宗教は霊魂崇拝に由来しているとして、こうした信仰を霊魂を意味するラテン語のアニマ(anima)からアニミズム(animism)へ名づけました。そう、まさにその「祈り」の長い歴史というのが「崇拝」であり、「信仰」なのですね。これは自然や宇宙に祈るという意味です。皆様ご存知のデュルケムにおいても、無生物のトーテム(つまりアニミズム)は単なる名目ではなく、宗教的標章であり、聖物の典型であり、また単なる礼拝に留まらず、一種の宇宙観をも含んでおり、それらが宗教の本質的な特徴であるとの解釈がなされています。なんとなく、ニュアンスというかイメージは分かりますよね。


 デュルケムは言わずと知れた大変著名な学者であり、著書『宗教生活の原初形態』において、アニミズムやトーテミズム、神秘、呪術、霊性などについて上下巻で分析しています(1941年第1刷発行の話です)。訳者の古野清人によれば、「宗教は社会生活のもっとも深奥な顕現であると彼は確信していた」と述べています。更に、環節的社会において、宗教現象が道徳・芸術・法律・政治・経済などの諸現象を主宰しているとデュルケムは著書で力説しています。また、トーテミズムのうちに認識論を見出しています。この書籍では、トーテミズムは動植物の礼拝よりもっと無名の非人格的な力、マナ(mana)への信仰とするほうが適切であると述べています。マナイズム → アニミズム → トーテミズム → シャーマニズムといった形態とも捉えることができそうですね。どんどん狭義になっていきます。


 またとても興味深いのが、トーテムは単なる崇拝対象ではなく、一つの倫理的な特性を持っている、とのことなんですね。たとえば「お天道様が見ているから悪いことはよそう」というのはよくある言葉ですが、これは理に適っていて、それはちょうどフーコーでいうパノプティコンにあたるのではないかと思います。監視されているから、悪いことをやめようという倫理性を高める役割が、古来からトーテムが神への投影として、存在していたんですね。


 さて、全体のまとめに入りますが、霊性主義において、読まれている方に押し付ける意図は全くなく、飽くまで説明として述べてきましたが、このコロナ禍で様々な理不尽がこれまでの機会不平等を越えて「平等」に人々に降り注ぐとき、まるで一人一人がヨブのようです。そうしたときに、「一体自分は何を信じればよいのか」と、途方に暮れることがありますね。何かの不条理に見舞われたとき、誰かの痛たましい不幸を目撃したとき、「神様、貴方に一体なにをしたのですか」と思わずこころで唱えなくてはおられないことがあると思います。日本は無神論の方や、無信仰の方も多いですが(かくいう私もそうです)、胸のどこかで反射的に願ってしまうことがある。これが「祈り」とも捉えることができると思います。「神頼み」といいますか、誰にも言えない、頼れないというときに、一心に祈ること。これは古代から超自然的なものを信じることで、現代の研究対象となるまで、脈々と受け継がれてきた生物の営みといえることができると思います。未開は決して野蛮性のあるものではなく、生物の原初的な可能性に開かれた存在であると、私は考えています。

 引用文献:小林道憲『宗教とはなにか』日本放送出版協会
      デュルケム『宗教生活の原初形態(上)』岩波文庫
      本間愛理『エストニアのMaasuk:アニミズムを再考する』北海道大学
   https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/57690/1/14_003_Homma.pdf

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