有意味性について

2021/4/8 寄稿 

 さて、今回は「意味づけをする意味について」つまり「有意味性」について述べてまいりたいと思います。何故その議題にするかといえば、私がこれまで述べてきた「隠喩交流」や「祈り」をどう「受け止めてきたか」についてフォーカスして展開していくことで、言い換えるならば、皆様がレジリエンスの必要性を感じたときの少しの参考にでもなればと、頭の片隅に置いていていただければという、ささやかな願いを込めた章です。

 健康心理学の視点から述べていくと、この有意味性は「首尾一貫感覚(sense of coherence : SOC)」のなかの一つの概念です。イスラエルの医療社会学者アントノフスキーによって提唱された理論であり、この首尾一貫感覚というのは「その人に浸みわたった、ダイナミックではあるが持続する確信の感覚によって表現される世界(生活世界)規模の志向性」と定義されています。自分の生きている世界は一貫しているという主観的な感覚(確信)であり、それぞれ「把握可能感」、「処理可能感」、「有意味感」から成ります。

 まず把握可能感とは、「人が内的環境および外的環境からの刺激に直面したとき、その刺激をどの程度認知的に理解できるものとして捉えているかの程度」です。今回の現象でいえば、混乱しつつ状況把握として、まず私は解読してしまったのだ、そしてそのことが何がしかの必然によって相手に届いてしまったのだ、だから説明する必要性を感じたのだ、というふうに状況把握したことそのものです。

 処理可能感とは、「人に降り注ぐ刺激に見合う十分な資源を自分が自由に使えると感じている程度」です。はたまた当てはめるのなら、たとえば自分はこの現象をどこまで対処できるのか、どのような物的社会的資源でもって処理できるのか、ということです。今回私は状況は把握したけれども、果たしてこの事象が処理可能か皆目見当つかず、慌てふためいてしまったというわけです。ただそのなかでも「隠喩交流」でなんとか皆様と編み出して状況の処理を少しずつ少しずつ、七転八倒しながら可能にしていきました。

 そして最後が有意味感です。これは「人が人生を意味があると感じる程度。生きていることによって生じる問題や要求の、少なくともいくつかは、エネルギーを投入するに値し、関わる価値があり、ないほうがずっとよいと思う重荷というより、歓迎すべき挑戦であると感じる程度」とのこと。まさに代弁してくれております。

 特筆すべきなのはアントノフスキーは、有意味感が高ければ、他の2つが低くとも対処する動機づけが高まり結果としてほか2つも上がるため、有意味感が最重要であると述べています。それが、前回でいう「必然性」としての有意味感、更に「祈り」と現象に意味を見出すことで奮起していく力に繋がっていくのかもしれません。昔、ある友人に、私があまりにバカの一つ覚えみたいに「私のあれは意味があったんだ!」といったら「意味はないよ、なにもない」と寂し気に言っていたことが印象的でした。その友人はおそらく「意味なんて見出しても何にもならない」という絶望を味わったことがあるのかもしれません。私がこれまで力説していることを、決して押しつけないようにしなければならないなということは、常に念頭に置かなければなりません。

 そのうえでこれまでの経緯を別の視点から見たときに、たとい「祈り」が本当に作用したかどうかは実際の因果律から分からなくとも、私が主観的事実として作用したと「感じ」それによって状況を歓迎し信じ、取り組んでいったというレジリエンスによって突破できたことに着目したいと思います。私はそうした一つのサンプルには違いないわけですね。そして、これを読まれている方にも、そうした一つの学説に基づいた行動を図らずもとって、失敗体験を成功体験に翻したという勇気づけの一端に寄与したいのです。

 現象に一貫性を感じられることによって納得し次に進んでいくこと、これが首尾一貫感覚と言えるかと思います。私は前回までに挙げたような様々な学説を知らなければ、とても混乱し続けて最後まで理解できなかったことと思います。その意味でもやはり、様々な学説に目を通しておくことが肝要なのであり、知識が自分を守る武器あるいは杖になるということだと思います。

 ところで、もう少し紙幅にゆとりがあるので、今回はアドラー心理学の視点から考察してみたいと思います。皆様はベストセラー「嫌われる勇気」を読まれたことはあるでしょうか。あちらの書籍はアドラー心理学を基にしています。少し話が逸れますが、非常に興味深い理論でハッとさせられたのがアドラー心理学というのは、褒めることは相手を評価することなのだといいます。だから勇気づける必要があるのだと。アドラー心理学では対等性を重視していますが、褒めて評価する時点でタテの関係、もっといえば支配―被支配の関係になるのだといいます。褒めることが強化子になれば、容易くコントロールができてしまいます。アドラーはそれを危惧したのです。

 では勇気づけと褒めるの違いはなにか。たとえば子どもに晩御飯を作ってもらったとき、「えらいね、頑張ったね。」ではなく、「有難う、嬉しいな。」という。前者が褒めるで、後者が勇気づけです。何となくわかりますよね?「あなたメッセージ」か「わたしメッセージ」です。私は結構目上の方でも「あなたメッセージ」をついつい使ってしまうので、それが却ってタテ関係を滑らかにしているのではないかといった論理を破綻させつつ、冗談はこのくらいにして続けますね。

 怯えていた自分に対して皆様からいただいたことはアドラーの理論でいくならば「世界を信頼すること」、そして「貢献感」や「共同体感覚」です。世界への信頼には「自分の運命への信頼」も含まれています。運命というと何やら傲慢で大袈裟ですが、前述の有意味感とも通じてくるのではないかと思います。本現象でなぞらえるならば、Twitterでの皆様や起こっている全てをまず信頼すること、寄稿しながら状況説明をしていくことで貢献感をいただくこと、そしてそれらをまとめて共同体感覚を体感すること、そうした登場人物の皆様の働きかけによって、自ずから導かれていったのだと思われます。そしてそれは、たといコロナ禍という非常事態でも、人が人で居る限り、変わらない原理なのかもしれません。


 以上、学説に基づいた机上ではない根拠としての体験知でした。

引用文献:日本健康心理学会編『健康心理学辞典』丸善出版、pp.28-29

     野田俊作著『続アドラー心理学 トーキングセミナーー勇気づけの家族コミュニケーションー』アニマ2001

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