当事者性の弁証法
今日は。
ご無沙汰しております。ご覧いただき、有難うございます。
今回は、せっかくですので以前寄稿していたものを公開してみます。どんな反応になるか分かりませんが…(汗)。
なお、こちらは2021年4月10日に書いた文章です。それから下書きに直したのは、2021年8月31日です。
前置き
何と言いますか、いろいろと記事を書こうと下書きは膨らむばかりなのですが、ここ最近もずっと本がなかなか読めず、常時デスクワークをした終業後、のような状態の頭になっています。喋っていても、文章にしても、以前のようにスラスラと言葉が出てこない。従って出力の質が自ずから異なるだろうと思いました。これは自己憐憫になってしまいますが以前の文章を見ても、「よく書けたな」と、躁状態になっていた自分を少し労りたい気分になりました。
せっかく未だに閲覧してくださる稀有な方々がいてくださるので、どこまで届くか分かりませんが、リハビリを兼ねて、呟きでのbotだけではなく、少しずつ記事の連なったnoteとしても機能させて、徐々に頭を稼働させていければよいなということで、まずは過去の寄稿を掘り下げることにしました。
まず、どなたかが仰っていたように「生き方がその人の言葉を裏付ける」という言説がありましたが、まさしくその通りでいまの自分には、以前のような説得性はありません。今から新たに以前と同じように書こうとしても、上辺を撫でるように受け取っていただいても仕方ないかと考えます。
以前は、これまで述べた個人的人生哲学を体現している自負があったため、自信を持って伝達することができました。しかしいまは、同じことを言っても、ただただ上滑りするだけでしょう。だから、書けない。
ただ自分の場合は書くことを稼業としていないので、特段支障はありません。ですが、出来ていたことが出来なくなることは、やはり辛いですね。以前の文章をみると、勢いや自信が違います。何かにとりつかれていたようです。いわゆるトランス状態に入っていたのかもしれません。
これを持続させることができれば、様々な応用が効きそうですが、恐らくそれには強靭な自己管理が必要になるかといえます。それは、プロとしての自覚、言い換えれば「責任性」と捉えることもできるかもしれません。
というわけで、過去の記事をあげます。もし、よろしければご反応をいただければ幸いです。過去/現在の対比などあると、とても有難いです。
追記:未だにこちらのページを見ていただき、大変嬉しい限りです。いつも気にかけてくださり、有難うございます。
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当事者性のテーゼ
さて、私は現在、このような事実に基づいた物語を書いているということは、「当事者性(person involved-ness)」を持って記述しているということになります。『質的心理学辞典』によれば「事件や問題などと直接かかわりがある人間をめぐり固有に生起する諸特性、また支配的な社会や文化から括り出され、印づけられた様々なカテゴリーを生きる人々がもつ諸特性のことを指す」とあります。特別自分が何か凄いというより、直接関わりがある「当事者」だからこそ、こうしていま記述させていただけているわけですね。
今回は、当事者研究ではなく、当事者性を持つ功罪について、文献を基に考察してゆきたいと思います。まずは、当事者が何故当事者性を帯びなければならないか、まずそこから遡り、述べなければなりません。世の中には様々な当事者に「なってしまった」方々がおられます。Twitterのなかでのある言説で納得したものが、まず自分が実存していることに「説明責任」を果たさないと生存権がない、とありました。そこからマイノリティへの入り口にも繋がってくるのですが、その体験は往々にして理不尽であり、それを何とか昇華・止揚したいと感じるからこそ、自分の生きるライセンスを獲得するために活動しているのではないか、と私は感じるのです。それは、前回述べた「有意味感」とも繋がりますね。意味を持たせ、受難を享受することによって、生物としての営みを果たそうとします。全ての当事者はある種の宿命かもしれなく、だからこそ、そこにあるときはマイノリティとしての使命感を感じ、(形而上学的な意味で)与えられた目的を果たそうとするのではないか。私にはそう見えるのです。また、当事者は当事者性を持つ限り、その当事者性を疑われ続けます。その意味でも、「説明責任」が重要な要素となり、多くの当事者はそこで力尽きてしまうわけですね。
当事者性へのアンチテーゼ
これでは立派な自己憐憫じゃないか、と読む気を失くす方もいらっしゃるかもしれませんので、この論調から当事者性についてのアンチテーゼを投げかけます。まず、「私はある当事者だ」と示すことは周りへあるいはマジョリティへ、責任の免罪を無意識裡に要請していることになります。恐らくここに分断の本質があります。そこでは「当事者」だから仕方がない、あの人の性格や努力不足ではないから厳しくできない、皺寄せがきていてストレスが溜まるけれど責められない、気を遣わなければならない、と。私は、過度な自己責任論においては新自由主義否定の立場から、特に他者に対して投げかけるのはあまり避けるようにしているのですが、こうした原理から鑑みて、当事者へ「適切な責任性」を持たせることは、極めて肝要だと考えているのです。
たとえば、私の場合それが顕著に表れ自分でも驚くのですが、当事者はしばしば「当事者性」に甘えてしまいます。当然、何がしかのハンデを負っていて、足並みを揃えづらいのは事実です。しかしながら、しばしば「当事者性」を獲得すると「責任性」が失われてしまう作用が起きてしまいます。大人としての責任、社会人としての責任、これらを「局外性」の喪失と引き換えに、「私はこれだけ苦労したのだから」という自己憐憫によって、責任性を放棄させてしまうことがあります。おそらく、当事者やマイノリティに対する拒絶反応の源泉には、そうした嫌悪感が含まれている可能性が高いのではないかと推察します。
ひとつTwitter上の言説で驚いたのが「上級弱者」という言葉でした。これは、カースト制度、あるいはヒエラルキーへの布石になるので、個人的には余り広まって欲しくない言葉ではあるのですが、前述のアンチテーゼの原理に基づけば、当事者性への自己憐憫、あるいは当事者の「濫用」によって、局外者側がそれだけ不快に感じているという流れのもと生まれた言葉といえば、納得することができます。当事者を名乗るときに、前述したことについて、深く自覚的である必要があるといえます。
当事者性のジンテーゼ
「第三者性」あるいは「局外者性」と引き換えに(もしくは喪失し)「当事者性」を付与された人々は、そのアイデンティティを新たに再構築するために、自分が自分であるとして取り戻していくために、活動しています。そこでは「当事者のなかでは」極めて自然な因果律の基に動いていると推測されます。しかしながら、「当事者性」-「責任性」という綱引きによって、「局外性」が合わせていて、配慮しているという事実も他方で存在しています(元々から配慮したくない!という方については、第1節:テーゼの段落の内容での事情を御理解いただければ大変嬉しいです)。そのために、少し広げて見てみると、マイノリティーマジョリティの対立や分断が生まれていくのではないか、と私は考えます。いやいやマジョリティも、結構気を遣っているんだよ、自分自身も自分のことで精一杯なんだ、自分が当事者になっちまう、と。
私は原理的には本来、「当事者」じゃない人はこの世に居ないのではないか、とさえ思うのです。人々はそれぞれ何がしかの側面で「当事者性」を帯びる。そうした原理に気づき、一人一人が世の事象を対岸の火事と思う前に、当事者においても「自分が(この局面において)第三者だったらどう思い、行動するだろう、どんな言動で不快に思うだろう、どのように工夫すれば意思疎通に繋がるだろう」と思いを巡らすこと、そして局外者においても「自分だったらこの立場でどうするだろう」と考えること、そうした想像力を互いに働かせ、尊重し合うことで、分断が少し緩和されていくのではないかと、私はそう感じるのです。決して簡単なことではないですが…。
まして、マイノリティが市民権を得たところでそこで展開されるのは、更なるマジョリティです。パレートの法則のようなもので、8割の多数派から2割を救出しても、またその2割から同じことが繰り返されるのは、これこそ普遍的現象であり自然の摂理です。ですから、この世から争いが減らないように、環境を整えてもまた、あらたな環境問題が発生すると思うのです。しかし、これまで様々な先人の方々の命を賭けた運動の足場の上で、当事者も局外者も生活できているという、その敬意はずっと忘れないでおきたいと思います。
補足
様々な「当事者性」を持たれている方が、特にアンチテーゼの部分を読まれて、自分を追い詰めてしまわれないか、とても心配です。これは飽くまで文献に基づいた「自省的」な記述です。当然、マイノリティのなかでも私はこうして発言する場があるだけでかなり恵まれています。その意味で、アンチテーゼの部分はもしかすると、とどめを刺すような言論になったかもしれません。誠に申し訳ございません。しかしながら、仲間でないと言えない苦言というものが存在します。仲間と思うからこそ、自分が言わなければ、それこそ局外者がいえばとどめを刺すことになることになり、それを局外者はできません。こうした「まなざし」があることは、他方で存在しており、それを当事者から述べることに意義があります。様々な立場の方が見られている場所だからこそ、中立性に努めることが(できなくとも、そう努めることが)、全体にとって良くなる気がするのです。当事者性でもって、市民権を得ようとするほど温度差が開くというパラドクスも他方で存在します。その意味で、弁証法的に今回は記述させていただきました。いつも独りで闘っている貴方様を、陰ながらいつまでも応援しております。
引用文献:川島大輔・能智正博・香川秀太編著『質的心理学大辞典』新曜社
参考文献:上田智子・耳塚寛明・中西祐子著『平等の教育社会学―現代教育の診断と処方箋―』勁草書房
(※ 当事者の責任性についての言及はこの文献を参考にしました)
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