現象の捉え方/曝露療法について

2021/4/9 寄稿

現象の捉え方

 さて、世の中に起きる様々な事象も、普遍的現象であると思います。これまで執筆に勤しんでいましたが、たまたま私は違う場所で今までとは異なった刺激を受け、その緊張状態が続くわけもなく、糸が切れてしまったという状況です。そうしたご経験は、やはりどこかしこで見聞きされたことはあるのではないかと感じます。私はその一例ですね。正当化するわけではないのですが、飽くまで誰かを悪者にしたくはないもので、こうした捉え方を、私はなるべく心掛けております。

 たとえば日常を生きればしばしば様々な軋轢は起こりますが、そのなかで仮に自分を排他する存在があったとしても、それはその方のなかでの生存本能なのかもしれません。比較的安定していた場所に異質なものが立ち顕われるとき、その方が今まで築き上げた全てが壊されるかもしれなく(トリックスターは低次元である場合、しばしば破壊をもたらしますよね)、それはある種の本能的危機に瀕しているとも考えられると思います。対立している(と主観的に感じている)その方も同じくギリギリを生きておられる。家族や何か守るものがあるかもしれない。絶対に達成しなければならない人生の目標があるかもしれない。
 それは「場」がもたらすものであり、個に帰属させるのは酷だと、私自身もやはり考えてしまいます。そうしたものを、普遍的現象としての相対的役割を生きていると捉え直すことで、善も悪も、平和も不協和も全て、愛せるのではないかと、大袈裟でさも簡単な言い方で烏滸がましいですが、いまでもそう感じております。そうした背景を想像することで、私はこれまで、人と繋がってまいりました。

 すみません、上記は学説ではなく持論を述べてしまいました。でも大切なことだと思います。実際に、Google scholarで調べましたら、「普遍的」に考察するというのは結構出てまいりました。引用しようかとも考えたのですが、あまりに学際的に使われている用語で豊富にありましたので、割愛させていただいています。

エクスポージャー(曝露療法)

 それでは、本題に入ります。クラスで一つ質問をするにもドキドキしていた私が、今こうして自嘲を禁じ得ないほど傲慢に言論できるようになったことに関して、学説を当てはめてみると、そこには認知行動療法でいうエクスポージャー(曝露療法)が作用していたように思います。認知行動療法は世界の臨床心理学の基準にもなっているエビデンスベイスト・アプローチに基づきます。どういう技法かといえば、歴史的にいえば行動療法の始祖的技法ともいえる系統的脱感作法から発展してきた方法です。臨床研究において必要なところだけを残した治療法がエクスポージャー(曝露療法)と呼ばれるようになりました。不安を感じる状況に想像上あるいは実際に曝すことで、その状況に慣れていき、不安に感じないようになることを目指す方法です。

 あまりこちらでも自己開示すると、この部分も私小説になってしまうのですが、私は長らく意見を述べることが本当に苦手でした。そのなかで、図らずも徐々にネット上ではありますが意見を言う場(不安に感じる場)に自分を曝露して「慣れて」いったのだと思います。技法解説によれば、短時間で止めず、不安が十分下がるか、少なくとも少しは下がったことが自覚できるまで続けないと「やっぱり怖いだけだった」という失敗体験として刻印されるといいます。今回の私は、その後何度も挫折しては起き上がり、時間を置いてまた挫折しては起き上がりで、お陰様で今ではやっとコンスタントに以前より負担なく、言論も含めて毎日寄稿させていただけるようになりました。その作用メカニズムは、古典的条件づけ(有名なパブロフの犬)とその消去から成ります。

たとえば私の場合は、小さい頃に朧気な記憶ですが人前で恥をかいたことがありました。恐らくその際に私の意見に誰かがクスクスと笑う「無条件刺激」があって、それに「無条件反応」として顔が赤くなったり心臓がドキドキしたりした。それが何がしかの理由で「般化」してしまい、ついに人前を想像あるいは実際に立つだけで、「条件反射」として赤面や動悸を覚えるというメカニズムであると考えられます。以降の私はなるべく人前を避け(回避行動)、不安な状況から逃れるために回避をどんどんと強化していっていました。エクスポージャーではこの回避行動(これまでの私なら鍵をかける、逃げようとするなど)による不安低下の悪循環を打ち破る方法であり、そうした目に見えない結び付きを一つずつ外していくものが曝露療法であるということができます。

 注意点としては、短時間で実施を止めてはならないことや、恐怖感が強すぎて実行可能性が低いもの、実際の危険が伴うものは避けなければなりません。この点でいえば、登場人物の方々の励ましやポジティブメッセージによって恐怖感が緩和され、結果的に長時間に渡る挑戦のもと、馴化していったのだと考えられます。

私が「自分が降りた場所は、更生・あるいは救済場所だった」と述べるのはこうした根拠に基づくわけですね。実際に皆様のお陰で個人の変容を促していただき、「有意味感」を感じ感謝し取り組んでいく力は、そうしたところに繋がってまいります。そうした道程があり、私は説明する意義について真剣に考え始め、皆様と隠喩交流をとりながら、関係性を深めて現象を少しずつ、協同作業でもって、徐々に紐解いてゆくのでありました。

 引用文献:下山晴彦編著『よくわかる臨床心理学』改訂新版、ミネルヴァ書房(2011)


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