警察・検察と司法の不備、癒着とでもいえる関係──菅野良司『冤罪の戦後史 刑事裁判の現風景を歩く』
「過去の冤罪事件をみても、虚偽の自白が供述調書として作成されていると、いくら被告人が法廷で「その調書はうそです。警察官や検事にいやいや言わされたのです」、あるいは「調書は取調官の作文です」などと主張しても、裁判官は聞き入れないことが多い。取り調べにあたった捜査員や検事が「被告人はん涙ながらに自白したのです。強制や誘導はしていません」と法廷証言(こういう証言の方が偽証罪にあたるのではないだろうか)すると、そのまますんなり虚偽自白の調書に任意性、信用性が認められてしまうのだ」
なぜ虚偽自白が行われるのでしょうか。取り調べの過酷さも大きな一因です。それだけではありません。二俣事件で捜査の指揮をとる警部補はこう言ったそうです。「Sはまさしく犯人である。大地を打つ槌がはずれても、これは絶対のはずれのない犯人である。間違いはない。しかし、その証拠は何もない。そこで諸君には明日からこの証拠を探し出してもらいたい」と。本末転倒のもの言いだけでなく、この指揮官は「異議のある捜査員はぬけてもらうという」ことまで言ったそうです。見込み・決めつけの典型です。このSさんは8年後に無罪が確定します。このSさんが犯人ではないと考えた現職警官がいました。取り調べの過酷さにも気づいた警官は法廷で証言に立ちました……。その警官がどのような一生を送ったのかはこの本の第4章に詳述されています。驚くようなことが取材によって明らかにされています。
この二俣事件は1950年のことでしたが、今それが大きく変わっているようには思えません。
「検事が『公判廷で否認すればもともとなのだから心配はない。裁判のときになったら〝あれは嘘だ〟と言えば大丈夫だ(略)』といって、むりやりサインをさせられた」り法廷で「対決すれば、すべてがはっきりする」という思いから虚偽自白がされるのです。
『虚構の法治国家』にもこうありました。「重罪の場合には、冤罪を主張する者に対して「言い分は、公判になってから裁判所で言えばよい」と、あたかも裁判所では、その言い分が十分に取り上げられるかのように説得して、調書に署名させる。けれど公判では99.9パーセント有罪なのですからね。結果的には詐術になっています」と。
犯人と目された人は最後の望みをかけて法廷に立つのです。しかしその法廷といえば自白調書や供述調書を証拠採用するのがまず前提となっているようです。
菅野さんはこの調書について「取り調べの可視化、加えて弁護士の取り調べ立ち会いは喫緊の課題だが、この際、調書の作成を根本から考えなおした方がよいのではないだろうか」と提言しています。
「捜査員が被疑者の独り語り形式にまとめる調書は、江戸時代や明治維新、一般市民の多くが文書作成能力を持たなかった時代の名残」ではないかと菅野さんは記しています。この形式が冤罪被害者に誘導尋問的な取り調べを行い、結果さまざまな物証、事件経緯を被疑者に伝えていることになっていのではないでしょうか。自白調書作成を通して被疑者に事件の追体験をさせているのではないでしょうか。
最終章ではさらにまた痴漢冤罪事件では虚偽自白を進める弁護士の事件が取材されています。示談ですまして大事にならないようにと、そう進める弁護士。それに従ったゆえに大きな不幸に見舞われた家族。けれど、やってないものはやってないということを主張し続けるのも困難なことは知っておいた方がいいと思います。
ひとたび有罪が確定すると再審の道は想像以上に険しいのです。「確定判決維持に固執」する裁判所。
厳密な審理をしてもらえるという冤罪被害者の望みをかけた法廷も「大筋論認定」(第13章)が平然とまかりとおることもまれではありません。
忘れてはならないことがあります。「逮捕や起訴前の勾留は、そもそも取り調べが目的ではない。あくまで罪証隠滅や逃亡を防ぐため」であるはずなのに「取り調べ受忍義務があるかのように実務上は運営されている」し、「捜査当局が自白を引き出そうとする被疑者が、真犯人とは限らない」ということです。「取調べを受けること自体がかなりの屈辱感を伴うものである」(平野龍一さん)という監視下に置かれた供述を作るということはすぐにでも見直さなければならないのではないでしょうか。
この本にはもう一つ特色ある事件が取り上げられています。憲法解釈で取り上げられている砂川事件です。
「①伊達判決を破棄した最高裁大法廷は「公平な裁判所」ではなかったことが、新たな証拠によって明らかになった。
②この最高裁大法廷は憲法三七条一項が定める「公平な裁判所」ではなく、憲法違反の裁判所であった。
③その違憲な大法廷の判断に拘束された東京地裁の岸判決は誤判であり、刑事裁判を打ち切るべきであった。
④打ち切り方法としては憲法違反による免訴判決が相当である」
というものです。
「砂川事件の再審が問いかけるものは、直接的には田中長官の不公平な言動だが、巨視的あるいは歴史的に見るならば、裁判官として不公平な言動をする人物がなぜ最高裁長官として選ばれたのか、なぜ田中長官は不公平な言動をしたのか、そうした田中長官的体質は現在の最高裁あるいは裁判官全体の中に引き継がれてはいないか、ということだろう」
この本は地道な取材で警察・検察と司法の不備、癒着とでもいえる関係を浮かび上がらせていると同時にどのようなかたちで〝推定無罪〟や〝疑わしきは罰せず〟が存在しているのかも明らかにしているように思えました。巻末の「戦後のおもな冤罪事件」の一覧表を見るにつけ……。
書誌:
書 名 冤罪の戦後史 刑事裁判の現風景を歩く
著 者 菅野良司
出版社 岩波書店
初 版 2015年7月24日
レビュアー近況:MacOS XのEl Capitanへのアップデートが始まりました。地味ながらも、ゴミ箱をすっ飛ばしてファイルを消去出来るようになったのが便利デス。
[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.10.01
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4197