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軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか──岡潔『春宵十話』
「春宵十話」のすぐ後に置かれた「宗教について」はこのような文で始まります。
「太平洋戦争が始まったとき、私はその知らせを北海道で聞いた。その時とっさに、日本は滅びると思った。そうして戦時中はずっと研究の中に、つまり理性の世界に閉じこもって暮らした。ところが、戦争がすんでみると、負けたけれど国は滅びなかった。その代わり、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちにと食糧の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。私にはこれがどうしても見ていられなくなり、自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。生きるに生きられず、死ぬに死ねないという気持だった。これが私が宗教の門に入った動機であった」
この章を読んでもう一度「春宵十話」を読み返すと「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい」という文が違った意味を帯びてくるように思えます。さらに「単に情操教育が大切だとかいったことではなく、きょうの情緒があすの頭を作るという意味で大切になる」という文を読むと、岡さんが私たちに伝えたかったことが何であるかを今一度考えなしてみたくなります。
岡さんのいう情緒とはどのようなものでしょうか。上の文に続けて岡さんは交感神経系、副交感神経系の話へと続け、大脳前頭葉の役割にふれています。
「抑止の働きは大脳前頭葉の働きで、大脳前頭葉を取り去ってもなお生命は保てるが、衝動的な生活しか営めない」
「衝動の強く働いている現状は、一般に大脳前頭葉の発育不良といえる。西洋流の教育は一口にいえば大脳の発育が中心(略)にもかかわらず、教育の結果は大脳前頭葉の発育不良という形で出ている」のであり「副交感神経系統の協力しているノーマルな大脳の働きはでないのではなかろうか」と。
この衝動というのには「試験のときでも、意味も十分わかっていないのにすぐ鉛筆をとって書き始めるなどは衝動的な動作だ」というように、広く、独自なとらえ方をしています。
乱暴にいってしまえば、〝理性〟の限界をこえたところに〝衝動〟があり、それをコントロールするところに人間の存在価値を見出しているということなのではないでしょうか。この場合の〝衝動〟とは〝乱暴・暴力的な行為〟ということではありません。当人が〝理性的〟〝合理的〟と思っている上ですら生じてくるあるものを〝衝動〟といっているように思えます。
戦時は、主観的には〝理性〟の部屋に立て籠もることができても(それには不屈で強靱な精神が必要なのはいうまでもありません)、戦後の混乱はそれを許すことができなかった。理性の限界があらわれたということではないでしょうか。
なぜ戦後の混乱が岡さんをとらえたのでしょうか。混乱の底には戦前・戦中の教育の偏差があったからかもしれません。
「戦争中、小さな子から遊びをとりあげてしまい、戦後まだ返してやってないが、これでは副交感神経系統の協力しいているノーマルな大脳の働きは出ないのではなかろうか。こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う」
交感神経系統中心の戦前・戦中の教育が戦後の、岡さんすら困惑させるような混乱を生んだということなのではないでしょうか。それゆえの〝情緒〟というものへの着目だったのです。
この〝情緒〟は、
「数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒である」
というものなのです。それは〝理性〟や〝衝動〟を超えた〝永遠性〟というものなのかもしれません。
この調和のもたらす〝永遠性〟は数学と物理の差を論じたところでも現れているように思えます。
「職業にたとえれば、数学にもっとも近いのは百姓だといえる。(略)そのオリジナリティーは「ないもの」からあるもの」を作ること」であり、対して「理論物理学者はむしろ指物師に似ている。人の作った材料を組み立てるのが仕事で、そのオリジナリティーは加工にある」と論じ、理論物理学が盛んになった一九二〇年代から三十年足らずで原爆を完成したことにふれてこのように断じています。
「いったい三十年足らずで何がわかるだろうか。わけもわからずに原爆を作って落としたのに違いないので、落とした者でさえ何をやったかその意味がわかってはいまい」
ここに戦時に理性の世界に孤絶した意思で過ごした岡さんの凄味を感じてしまうのは誤解でしょうか。
「いまはギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか」
さて、私たちはこの言葉を否定できるでしょうか。
書誌:
書 名 春宵十話
著 者 岡潔
出版社 光文社
初 版 2006年10月20日
レビュアー近況:東京音羽は台風一過ならぬ爆弾低気圧一過で良い気候ですが、北海道はまだまだ悪天が続いています。お気を付けください。
[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.10.02
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4149