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軍隊とは、戦場とはどのようなものか、そして戦闘の実態、戦争とはなにかを活写した名著です──春風亭柳昇『与太郎戦記』

この本は戦前横河電機に勤めていたサラリーマン、秋本安雄さん、復員後(戦後)落語家となった故・春風亭柳昇さんが徴兵され、除隊を目前にしたものの、太平洋戦争の開戦のためそのまま召集となり敗戦をむかえるまでの回想録です。

一庶民の視点で綴られたこの本は、当時の軍隊生活がどのようなものであったか、生き生きと活写しています。(さすが噺家!)
昭和15年7月、徴兵検査も無事(!)とおり、晴れて入隊。そこで待っていたのは辛い訓練と古参兵にいじめられる日々でありました。まだかまだかと心待ちにしていた外泊許可。
時には脱走兵を捕まえに上官と新宿の遊郭へと探し歩くこともありました。戦友仲間にも助けられ模範的な新兵だった秋本さんも時には重営倉に入れられることもありました。

この内地時代の戦友の厚い友情だけでなく、戦地に赴いてからも、秋本さんはとても人に恵まれていたようでで、同期兵、進級してからは部下から、また上官から、さらには中国人の少年からもとても好かれていました。えもいわれぬ優しい人柄があったのでしょう。優しすぎて(本人は美男子過ぎてと書いていますが)上官から思わぬ関係をせまられたりもしたそうです。

最初に派遣された戦地は中国大陸の南京でした。
「戦する身はかねてから、野戦に出さえすれば、すぐドンドンパンパンとはじまると思っていたら、なかなか、そうは予想どおりにはいかないうものである」
というように、待機中の軍隊生活を送っていましたが、
「戦機はようやく熟してきた。といっても、どう熟したのか、兵隊どもにはうかがうスベはなかったが、出勤の度合いが、少しずつふえてきた」
そして、敵陣偵察に向かった友軍が発見され包囲されたという知らせが入り、秋本さんの部隊が救出に向かうことになったのです。けれど包囲された10名を救い出すことはできませんでした。死体収容の作業。
「機関銃隊の私たちは、丘の上から、何か絵でもながめるようにのんびりとながめていた。……と書くと、いかにも不謹慎なようだが、毎日のように、だれが死んだの、どの部隊が全滅したのという話を聞いていると、人の生き死ににはまったく不感症になってくる」
「一人の軍曹の作戦の誤りから、全員死なねばならなくなる。指揮者の責任の重大さを、イヤというほど、思い知らされた」
秋本さんでした。

戦況が不利になるにつれて、といっても大本営発表では勝利続きになっていましたが、死がどんどん秋本さん身近に感じられるようになっていったのです、自分の死をも含めて。
戦闘の合間にもある日常生活、その中での旧師、旧友との出会いもありましたが、
「昭和十九年という年があけ四年兵にはなったが、私たちは除隊の除の字も聞くことができない。コトは重大である。「こりゃァ死ななきゃ帰れないぞ」」
と感じ始めるようになってきたのです。

日増しに激しくなっていく戦闘。秋本さんたち総員15名の分隊は重機銃3挺と打上筒3筒を武器に船に乗り組むことになります。「対空射撃要員」としての乗船でした。
そして始まる激しい戦闘の日々……。(この新兵器、打上筒がごのような戦果をもたらしたのか、抱腹絶倒間違いなしなので、ぜひ読んでみてください)

ユーモラスな筆致で綴られていますが、その日から秋本さんの激しい戦闘の日々が続きます。撃沈された友軍の船、生存者の救助、敵機との果たし合いのような一騎打ちの戦闘……。上官、部下の戦死、ついには秋本さん自身が瀕死の重傷を負ってしまいます。
そしてむかえた敗戦の日、さらには復員までと、今の本ではなまなかな戦記では感じられない深い感動、悲哀とでもいったものがあふれています。

どのような先入観や、やくたいもない大義名分とは無関係な、とても個人的ではあるものの、それゆえに普遍性を感じさせる戦記というより、戦時生活記としてたぐいまれな名著だと思います。ユーモアでしか思い起こせない、思い起こしたくない記憶、記録というものもあるのではないでしょうか。それが、あるいは生活者、大衆の叡智というものなのかもしれません。そんなこと感じさせた一冊でした。

書誌:
書 名 与太郎戦記
著 者 春風亭柳昇
出版社 筑摩書房
初 版 2005年2月10日
レビュアー近況:東京音羽、ご飯屋さんが軒並みお休みに突入。毎年コンビニ飯が数日続くのが恒例でしたが、24時間営業の牛丼屋さんが今夏オープン。殺伐とした野中のお盆に、細やかな彩りを加えてくれました。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.08.13
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3898

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