政治は言論の力学の場であることを再認識させてくれる力強い評伝です──根本敬『アウンサンスーチーのビルマ』
「本当に繁栄している国を見てください。第二次世界大戦で、勝利した国を見てください。真理に導かれて、国民が身を犠牲にして行動した国が、世界大戦で勝利したのです。始めのうちは、ファシズムを採用していた国が、戦いに勝っていましたが、その後敗れ去りました。 なぜならば、真理とは程遠いものであったからです。真理から程遠い体制というものは、いつの日か滅びるものです」(アウンサンスーチーさんの演説より)
まずなによりも先に、多く引用されているアウンサンスーチーさんの演説(=言葉)にうたれます。政治活動というものが、なににもまして言葉(=演説)によって成り立っているものであることをあらためて気づかせてくれます。
もし言葉の発進力とその言葉の受信力で国の政治水準がはかられるとしたら、日本はどのくらいの水準にあるのでしょうか。なんだかんだいっても映画『スミス都に行く』ではありませんが、アメリカにはこの政治としての言葉の受発信力は備わっているように思えます。日本の形式化された質疑ばかりが目立つ国会とは大きく違っているように思えてなりません。
根本さんはアウンサンスーチーさんの伝記的事実を追いながら彼女の中に「六つの思想的骨格」というものを見出していきます。それが
「恐怖から自由になる」
「正しい目的は正しい手段によってのみ達成される」
「真理の探究」
「「問いかけ」を持って生きる」
「社会と関わる仏教」
「真理にかなった国民」
というものですが、中でも根本さんは「真理」という概念に注目してこのように紹介しています。
「「国民が、真理を手にたずさえて」いること、すなわち「真理の追求」に基づく生き方をおこなっていることこそが、その国の「正しい」統治制度とその運用を保証することになる」のだと。
アウンサンスーチーさんの言葉が少なくとも「真理の追求」であるという強い信念に裏打ちされているからこそ彼女の言葉が力を持ち、政治的な求心力を生み出したのだと思います。
政治は言論の力学の場であるはずです。だからこそ私たちは「真理の追求」ということを忘れてはならないのではないでしょうか。昨今目立つ日本の国会等での乱暴な議論の進め方や内容を見るにつけ、「真理」「倫理」というものから、それらは歴史に裏づけられたものだと思いますが、いかにかけ離れているのかと思い、なんともいえない気持になります。
アウンサンスーチーさんの「真理」がビルマの歴史、それはとりもなおさず植民地時代、日本占領下、戦後の軍政下でどのような暴力にさらされてきたかという国の歴史ですが、そのなかでつかみ取られた「真理」であるのはいうまでもないことだと思います。歴史への直視からしか未来はひらかれないということをあらためて感じさせてくれました。
ところで国名ですが、なぜミャンマーでなくビルマなのかはこの本の冒頭で過不足なく語られています。
それにしても、無投票当選が目立つ今回の日本の地方選挙、ミスコンまがいとメディアにからかわれる立候補者たち(もちろん政策を持っていると信じたいですが)の選挙区、その日本に「真理の追求」が可能なのでしょうか。その一方でみられる、言論の力学を封じるかのような行政の強権化。私たちはそれに抗して「政治自体の復活」から始めなければならないのかもしれません。
書誌:
書 名 アウンサンスーチーのビルマ 民主化と国民和解への道
著 者 根本敬
出版社 岩波書店
初 版 2015年1月20日
レビュアー近況:校了の渦中ですが、野中はこれから年に一度の健康診断です。町田町蔵(康)じゃないですが「メシ喰うな!」と言われれば喰いたくなるのが毎度、禁止欲求の性、です。
[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.04.23
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=3430
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