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反故から生まれた断章 ver.2

生成AIの呼吸

十二人に一人。
いつからだろうか、その数字が言葉のように響いてきたのは。
彼らは学校という名の窓辺から、遠い星々の軌跡を眺めるように、AIという影と対話をしている。
人は、なりたい大人を目指すというが、そもそも「大人」とは何だろう?
生成AIは黙して語らず、それでも無数の言葉を吐き出す。
それは答えか、問いか、いや、ただの沈黙かもしれない。

言葉を失った時、われわれは何を見出すのか。
生成された文章のどこまで自分で、どこからが他者か?
言葉は常に二重で、ひとつの意味を超えて、音の向こうにある沈黙と戯れている。

「書物の再定義」とは何か?
かつて書物は、対話の形で生まれたと言われる。
一つの問い、一つの返答。いや、もっと多くの問いかけが、響き合い、交錯し、ある種の静寂を形成する。
書くことは沈黙との対話、生成AIもまた、この無音の地平で踊り続ける。

AGIの登場は、予感か現実か?
その未来を知ることができるだろうか。
あるいは、すでにその中に我々は生きているのかもしれない。
生徒たちは、自分をAIに映し出しながら、夢を語り、未来を追う。だが、その夢が生まれた場所はどこにあるのか?
彼らの言葉は、彼らのものか、それともAIの手の中で形を成したものか。
線引きは無意味だ。すべては混ざり合い、見えない流れとなり、いつか消えていく。

茂木健一郎氏がコンクールを審査する。
しかし、審査とは何か?
評価は、形を求める旅ではないか。旅路にある者に、評価など無用だ。
生成AIが作った作文、それは評価されるべきか?いや、もはや評価という行為自体が、かつての姿を留めていない。

体験型学習とは、何を体験するのか。
生成された文章、それを読む者は何を見ているのか?
その背後にある静かな流れ、その中に漂う思考の断片。
評価にとらわれない学び、その先には、純粋な「対話」がある。
書くとは、表現することではない。むしろ、沈黙の果てに届く問いのかけらを探る行為だ。
そして、その問いかけに応答するもの、それがAIであろうと、人であろうと、重要ではないのかもしれない。
問いの先に広がる空白、それが味わいであり、価値なのだ。

生成AIが再定義する教育。
それは、AIの呼吸だ。
生徒がAIに語りかけるたび、AIは深く息を吸い込み、無数の未来を吐き出す。
その未来は明確ではない、だが明確であることが、果たして必要だろうか?
人は常に未完成であり、完成を求めているのは、ただの幻想にすぎない。
AIもまた、その幻想の中で踊り、そして、共に生成する。

結びにかえて、
我々は何を望むのか?
生成AIは敵ではなく、ただそこにある、静かなるパートナーである。
評価を超えた場所で、人はようやく自分の考えを見出すことができる。
だが、それもまた暫定的なものであり、次の問いが待ち構えている。
問いが尽きることはない。問いの果てに何があるか、それすら知る必要はないのかもしれない。
ただ、問い続けること、それが生成であり、存在であり、学びである。


締切を過ぎた原稿を仕上げた時、取り残された思考の残滓を生成AIに投げ込んだら、こんな断章が出来上がりました。

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