サバイバーズ・ギルトとパラレル・ワールドの時代
サバイバーズ・ギルトの話
サバイバーズ・ギルトとは、簡単に言えば、生き残った者が感じる負い目のことである。
かりに身近な人間が自殺したとすれば、「どうして助けてあげられなかったのだろう? 」という罪の意識を覚えることは避けがたい。
大きな災害や事故に遭遇したにもかかわらず生き残った場合、「どうして自分だけが助かってしまったのか?」という「負い目」を感じることもある。
1995年の阪神淡路大震災や2005年のJR福知山線脱線事故の際などにも、サバイバーズ・ギルトに苦しめられる人びとのことが報道されていた。
そして厄介なのは、災害や事故に巻き込まれて生き残った者だけではなく、災害や事故を目撃した者の中にも、似たような罪の意識や負い目が生じてしまう場合があることだ。
たとえば、東日本大震災の津波の映像をお茶の間で目撃してしまった西日本の人びとなどがこうした場合の典型例だ。
テレビを通して惨劇が放映されることで、それを「傍観」するしかない者の側に負い目を与える。
そして今や、インターネットを通じて世界中からさまざまな惨劇の情報や映像が届けられる。
ウクライナだけではないし、もちろんトルコだけでもない。
シリア、アフガニスタン、コンゴ、ミャンマー、パキスタン、アフガニスタン、南スーダン、イエメン…などなど。
こうして国名をあげる際にも「取りこぼしている国や地域や民族があるかもしれない」という不安と鈍い罪悪感が、私の胸の中にわだかまる。
新美南吉の「ごんぎつね」や夏目漱石の「こころ」のような教科書教材が熱心に読まれ続け、惨劇と生き残りから物語が始まる諫山創の「進撃の巨人」や吾峠呼世晴の「鬼滅の刃」のようなマンガ・アニメが熱烈な支持を受けるのも、こうした時代を背景にしているからであるに違いない。
そして今や「生存者たち(Survivors)」「ウォーキング・デッド(The Walking Dead)」「イカゲーム」など、多くの国でサバイバル・ドラマが隆盛を極めている。
パラレル・ワールドの話
世界中で起こる惨劇を「傍観」し続けることを強いられる情報化社会、デジタル社会の中で、サバイバーズ・ギルト(生き残りの罪障感)の物語が、パラレル・ワールド(並行世界)の物語へと分岐し始めている。
阪神淡路大震災のときに語られた物語の典型的な形は、「なぜ、私が、あそこに寝ていたのだろう? なぜ母が寝ているタンスの下が危険な場所であると気付けなかったのだろう? なぜ私がタンスの下に寝ていなかったのだろう? もしも、私がタンスの下に寝ていたら、もしもタンスの下に布団を敷かずにベッドを買ってそこに寝ていたら・・・」
震災や災害、肉親との死別によって生き残りの罪障感を抱えている場合だけではなく、海の向こうで戦争が始まっているという現実を突きつけられながら、ヴァーチャルな世界にも居場所をつくって生きている私たちにとっての日常は、「~たら」「…れば」を延々と繰り返しながら、いつ・どこで、あり得べき別の世界へと滑落してしまうかもしれない時間の中にある。
それは、ウクライナで戦争が起きている世界と、そんな戦争は存在しない世界とがパラレルに存在し、何かの拍子に2つの世界を往還してしまう危うさの中で生きているようなものなのかもしれない。
ここではいちいち名前を挙げないが、ちまたにパラレル・ワールドの世界を描いたエンターテインメントがあふれ、それらに人びとが惹かれるのは、終わりなきサバイバーズ・ギルトの時代の所産なのかもしれない。
未