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ChatGPTをあざ笑う ー 2024年版
世界中の職員室に、ChatGPTの「間違い」を嘲笑している教員たちが未だにいるかもしれない。生成AIは2022年に登場して以来、教育現場にもたらした影響は計り知れないが、進化したとはいえ、出力に「デタラメ」が含まれることはある。そして、デタラメに満ちた画面を指さし、「ほら見ろ、使えない」と言うのはたやすい。しかし、それは教育者としてあるべき態度だろうか?
間違いを犯した者を誰かとともにあざ笑うふるまいは、いじめや差別の構造とよく似ている。2023年2月、ChatGPTを使い始めた当初、私もデタラメな「走れメロス」の感想文を笑っていた。
猛省している。
そういう空間に身を置き、誰かをあざ笑うという空気に自分が加担するのは、愉快なことではない。
そもそも教師たる者、発問に対して生徒がおかしなことを言ってきたら、まず最初にすべきは自省である。自分の発問がわかりにくいのではないか、誤解を誘発してしまったのではないかと、自ら反省し、生徒の発言と引き比べて検証すべきなのだ。そういうメンタリティを持つことができず、生徒を「バカ者!」と罵倒するようでは教師失格である。嘲笑するなど論外だ。
登場した当初より生成AIの精度は確実に向上してきたが、AIに的確な出力をさせるには、私たちの側にもスキルが必要である。だから、AIを授業に取り入れ、「批判的に活用する力」を育てるカリキュラムを作成している学校が出現し始めているのは歓迎すべき事態だ。生成AIをあざ笑う前に、生徒と教師が共にAIの回答を分析し、どの情報が信頼に値するかを議論する場を増やすべきなのである。
そもそも、間違いを恐れず発言することを歓迎すべきだと常々言ってきたのは、われわれ教師ではなかったか。間違えた答えをしてきたAIに「使えない」と烙印を押して切り捨てるのではなく、その「間違い」から何を学び、どう生かすかを考えるべきである。生成AIの進化を知れば知るほど、私たちの教育における責任も問われているように感じる。AIの「デタラメ」と対話しながら、私たち教師自身が変わり、学び続ける必要があるのだ。AIの「デタラメ」を新たな発見や豊かな創造につなげる道筋に目を凝らすべきなのである。
2024年、AIはさらに進化し、教育現場における「第3の教員」として生徒の学びを支えるツールとなり始めている。しかし、大切なことは、私たちがChatGPTやその他の生成AIとどう向き合うかである。「間違えてもいい、そこから学び続けることが大切だ」というあり方を自ら体現し、実践によって裏付けることこそが教師の務めである。