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サバイバーズ・ギルト覚書

サバイバーズ・ギルトはいつ生まれたか?

 10年前の2013年に放映されたNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重は、酸鼻をきわめた会津戦争の生き残りである。

 翌年の2014年に放映された「軍師官兵衛」の第1回のタイトルは「生き残りの掟」だ。

 昨年2022年に放映された「鎌倉殿の13人」は、死んでいくものたちの想いを次々に背負いながら、その重い荷物を背負って歩み続ける北条義時という生き残り(サバイバー)の物語であった。

 新美南吉の「ごんぎつね」や夏目漱石の「こころ」など、国語科教科書に収録されている定番教材の多くが生き残りの罪障感(サバイバーズ・ギルト)をモチーフとしているのことは、つとに私が指摘してきたことだが、テレビドラマや映画にも同じモチーフが繰り返し登場する。

 日本近代文学の研究者である宇佐美毅もかつて「『ノルウェイの森』と『家政婦のミタ』の共通点」としを書いてサバイバーズ・ギルトについて語っていた。

 そしてこれらはどうやら敗戦後に顕著になった現象であり、日航機墜落事故や阪神淡路大震災、JR福知山線脱線事故や東日本大震災など、大規模な事故や災害が起こるたびに改めて注目され、クリエーターたちの創作衝動に影響を及ぼしてきたと考えてよい。

 しかしそれなら、応仁の乱や関ヶ原の戦い、天明の大飢饉や戊辰戦争、さらには日清戦争・日露戦争や関東大震災など、多くの人命が一度に失われる大事件が起こるたびに同じようなモチーフに支えられた文化が生み出され、享受されてきてもよかったのではないかと思われる。

 たとえば、生き残りの罪障感という観点で定番教材を論じた「敗戦後文学としての『こころ』―漱石と教科書」を書いた2004年には、ウィキペディア「サバイバーズ・ギルト」という項目はまだなかったのだ。

 そういう問題が日本で明確に意識されるようになったのは、比較的最近のことで、せいぜいここ20年ほどのことに過ぎない。

 もちろん、1914年7月28日に始まった第一次世界大戦において、戦闘ストレス反応(シェルショック)という症例が問題視された頃にその淵源をさかのぼることもできる。

 しかしそうだとしてもたかだか100年前のことにすぎないし、少なくとも「サバイバーズ・ギルト」」という形で問題が明確に意識されていたわけではない。

 中世や近世、あるいはそれよりも前の時代にサバイバーズ・ギルトが人びとを苦しめるということはなかったということなのだろうか。

 戊辰戦争や西南戦争,三陸大津波や関東大震災を体験した人びとがサバイバーズ・ギルトによって精神的に不安定な状態に陥るということはなかったのだろうか。

サバイバーズ・ギルトが蔓延する条件

 中世や近世、あるいはもっと昔のことになると想像しがたいところがあるが、少なくとも明治時代や大正時代において、サバイバーズ・ギルトが芸術や文化の領域で主要なモチーフとなることはなかったと思われる。そういう傾向はやはり、20世紀後半から今世紀初頭にかけて顕著になっているのだ。

 いったいそれはなぜか。

 外形的な事実としては、戦没者の数の違いということがある。

 帝国書院の戦争別死傷者数という資料によると、軍人・軍属の死没者数は、日清戦争が1万3,825人で日露戦争が8万5,082人であるのに対して、日中戦争は(1937~41年)18万5,647人、日中・太平洋戦争(1942~45年)では155万5,308人にのぼる。

 日中・太平洋戦争の場合、軍人・軍属の死没者に加え、民間人の死没者39万3,485人が加わる。

 これらの死者の周辺には、戦友を見殺しにせざるを得なかった体験を抱えた復員兵や、空襲の混乱の中で肉親や知人を見捨てて生き延びるしかなかった人たちなど、サバイバーズ・ギルトに苦しむ人びとが大勢いたはずである。

 メディアが発達したことによって情報が共有され、自らが死者たちの運命に関与しているという当事者意識を持ちやすくなったということも、罪障感を生み出す要因のひとつになっている。

 一方、中世や近世の人びとは、死や死体が日常世界から遠ざけられている現代社会に比べ、死や死体に慣れてしまっているぶん、いちいち罪障感など感じていらなかったということがあるのかもしれない。

 当時の人びとの心理を探るすべを持たないので憶測に過ぎないのだが、すれ違う人と挨拶を交わすのが当たり前である地方の小さな村落とは異なり、都会の人びとが雑踏を歩いているときにいちいちすれ違う人に反応しないように、あまりにも死が身近にあり、日常的に死体(しかも腐乱した死体)を目にする時代であれば、生き残りの罪障感など感じている余裕はないということなのかもしれない。

被災地の臨床医が教えてくれたこと

 そんなことを考えていた私が、10年ほど前、少しばかり意表をつかれる文章に出会った。

 福島県の相馬中央病院の内科医である越智小枝の「被災地が教えてくれた現代社会の“風土病”」いうコラムである。

 震災後3回目の春を迎えた2014年4月に書かれたものだが、人工物のなくなった浜の大地と自然は、以前より栄えているかのようにすら見える言う。震災によって見えてきたのは、自然と人間の解離だというのだ。

 福島県には滝桜で有名な「三春町(みはるまち)」という土地があります。この土地の名前の由来は、春の象徴である三種の花、梅、桃、桜が同時に咲くことから名づけられたそうです。 三春町に限らず、福島県の春は唐突に、かつ一度に訪れます。桜と梅が一斉に咲くだけでなく山吹とレンギョウの黄色もきれいに混じります。足元にはツクシと水仙と菜の花が咲き、ウグイスがさえずる中ツバメが飛び交い足元ではカエルが鳴いているのですから、こちらの俳人は季語をどうしているのだろう、と要らぬ心配までしてしまいます。 そのような春爛漫の中、インペリアルカレッジ・ロンドンの医学部6年生、アリスさんが被災地見学にいらっしゃいました。晴天に恵まれた海沿いの通りを立ち入り禁止区域まで南下するドライブをしながら、いろいろなお話をさせていただきました。 途中、真っ青な海と花盛りの山を見ながら、彼女がつぶやいた言葉が印象的でした。「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」

MRIC by 医療ガバナンス学会メールマガジン「Vol.116 被災地が教えてくれた現代社会の”風土病”」

 生命が盛んに活動している時節に被災地を訪れたときのことをGoogleフォトに保存されている写真を見ながら思い出すと、確かにアリスさんの言葉は実感をともなって胸に落ちてくる。

 こうした感覚と惨劇の心象との逕庭の中に、生き残りの現実があるということなのかもしれない。


          未


Photograph by NJ


※ 2014-08-02 サバイバーズ・ギルト覚書―震災記(20) による


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