「国語教師」への“余命宣告”―全国大学国語教育学会ラウンドテーブルでの池田修さんの話のさわり
生成AIの登場は、まるで余命宣告のように、従来の教育方法に終わりが来ることを教員たちに突きつけています。その事実を否認したい気持ちは理解できますが、この変化は避けられません。
生成AIの進化によって、私たちの教育のあり方が根本的に変わるのは確実であり、今までのやり方がいずれ失効するだろうという予感が多くの教員に広がっています。
では、その現実をどのように受け入れていくべきなのでしょうか。
このプロセスを、エリザベス・キューブラー=ロスの提唱した「死の受容プロセス」になぞらえることで、生成AIに対する教育者の心理的な段階を捉える試みをしてみたいと思います。
生成AIの登場と教育の受容プロセス
生成AIが教育現場にもたらす影響は避けがたく、私たちがそれにどう向き合うかが問われています。従来の教授法や教育のアプローチが、生成AIによって無効化される可能性があると感じたとき、多くの教員が直面する感情はエリザベス・キューブラー・ロスが提唱した「死の受容プロセス」の5段階と重なります。彼女の理論は、死や喪失に向き合う際の心理的な変化を描いていますが、ここでは教育現場に生成AIがもたらす影響に対する反応として当てはめて考えてみましょう。
1. 否認 ― 「AIが教育を変えるわけがない」
まず、生成AIの力を見せつけられても、「教育には教員の存在が不可欠だ」「AIなんかに本当の教育はできない」と、現実を否認する段階です。長年培った知識と経験があるからこそ、教育は機械に任せられないという信念が生じるのも当然です。教員は、単なる情報伝達者ではなく、学びのガイドであり生徒の成長を支える存在です。しかし、「AIが教育を変えるわけがない」と思うことは、現実を一時的に遠ざけるための反応とも言えます。
2. 怒り ― 「なぜ教育がAIに奪われるのか」
やがて生成AIの可能性が明らかになってくると、「どうして教育がAIに取って代わられるのか」という怒りが湧きます。この段階では、生成AIに対する反発が強まり、「人間の手による教育の価値」を守ろうとする感情が表に出ます。この怒りは生成AIそのものだけでなく、教育の在り方やその変化のスピードに対する不満を含んでおり、教育の本質について深く考えるきっかけにもなるでしょう。
3. 取引 ― 「AIを補助的に使うなら問題ないはず」
怒りが静まってくると、「生成AIを授業の補助でのみ活用しよう」「主役にはさせない」といった形で、制約を設けて新たな技術を試行的に取り入れる考えが生まれます。この「取引」的な思考は、生成AIの影響を一部受け入れつつ、自分の役割を維持したいという心理の表れです。こうした制限つきのAI活用を通して、新たなバランスが模索され始めます。
4. 抑うつ ― 「自分の役割がなくなるのではないか」
取引の段階を経て、生成AIが教育現場で成果を上げる姿を目にすると、「このままでは自分の役割が消えてしまうのではないか」という喪失感に襲われることがあります。長年の経験やスキルが無力に感じられ、自らの職業的な価値が揺らぐこともあるでしょう。しかし、こうした抑うつの段階は、自己の価値を新たに見出す準備段階とも言えます。自己の価値を見直すには、まずこの喪失感と向き合うことが必要だからです。
5. 受容 ― 「生成AIと共に教育を進化させる」
最終的に、生成AIの存在を受け入れ、「AIと共に教育を進化させる」という新しい役割を見つけ出す段階に到達します。生成AIは、情報処理や課題生成で大きな力を発揮し、教員は生徒一人ひとりの学びを深く見つめ、感情や人間関係を大切にした教育ができるようになります。AIとの共存により、私たちの役割は「学びのガイド」としてさらに進化し、教育の新しい価値が生まれるのです。
この5段階のプロセスを経ることによって、生成AIが教育にもたらす変化を否認することなく、段階的に受け入れていくことが可能になります。このプロセスは、エリザベス・キューブラー=ロスの「死の受容プロセス」に基づいていますが、教育現場における新たなテクノロジーの受け入れにも適用できるものです。
このエッセイのアイデアは池田修氏によるものであり、生成AIをめぐる教育者の心情と向き合い方を考えるための視点を提供しています。
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