生成AIが映画をつくる時代の予感―宮崎駿の「君たちはどう生きるか」をめぐって
自己作品の自己模倣、あるいは自同律の不快
処女作を超えられなかったと言われる小説家がいる。
ひとりの人間が「作家」になるとき、時間をかけて自分の創作衝動を作品化していくわけで、すべてを注ぎ込むようにして優れた「作品」を生み出す。結果として、最も優れた作品で世の中にデビューし、その作品の焼き直しの作品のようなものを生涯書き続けることになるのだ。
小説家が「処女作を超えられない」というのは、おそらくはそういう事態である。
これを生成AIになぞらえれば、自分の脳内にあるデータセットから「作品」を「生成」する以上、データセットの特徴と、チューニングの具合に左右され、結果的に同じような文字列ばかりが出てくるということなるわけだ。
こうした枠組みから脱却するには、何かあたらしく具体的な言葉のタネを、プロンプトの中に投入する必要がある。
それは多くの場合、小説家の「体験」であり、しばしばそれは「過激な体験」となる。破滅型作家というのは、こうして誕生する。
破滅型作家でなくとも、ある小説家は恋をし、ある小説家は旅をし、またある小説家は政治的な行動を繰り広げ、さらにある小説家は特定の対象に取材することで、それまでの作品とは異なる作品を「出力」することを目指す。
こうしたデータセットの更新、チューニングの変更ができないと、ワンパターンに陥り、生成AIがつくったかのような作品を生み出すことになるわけだ。
それはまるで、自己作品の自己模倣、自らのテクストの引用の織物のようなものとなる。
宮崎駿の新作アニメを生成AIでつくる可能性
大量の映像作品をデータとして取り込み、それらのデータを元に映画を生成するAIが出現したとしたら、こんな短い自然言語で映画を作ることができるようになるのかもしれない。
映画『RRR』について、まるで生成AIがつくったかのようだと以前書いたが、 宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見た私が感じたのも、「まるで生成AIがつくったかのようだ」という感想だった。
こんな感想を宮崎駿にぶつけたら、川上量生がCGで作った動画を見せた時みたいに激怒するかもしれないが、怒りが激しければ激しいほど、その指摘は的を射ているものであることになる。精神分析学的に考えると。
未
【付記】
さて、この文章は、ChatGPTを使って書かれたものであるのか、そうではないのか。読者諸君はいかに感じるであろうか。