
「正解」の外に「真実」はあるか?―SNSと教育と民主主義
競走馬がつけている視界を狭める器具をブリンカーという。人が生まれた時からずっとブリンカーをつけていて、それがある日突然外れたら、世界はどのように映るだろうか。長い間、視界を制限された状態で過ごしてきた者にとって、その瞬間は驚きと新たな発見の連続であるに違いない。まるで、井戸の中から初めて外の世界を見たカエルのように。
日本しか知らない人が初めてアメリカを訪れ、「これが世界の常識か!」と感嘆する。しかし、アメリカも世界の一部であり、世界のすべてではない。そして、アメリカが世界(の一部)であるとしたら、もといた日本も世界(の一部)である。新たな環境に触れることで得た視点を「絶対的な真実」と誤解するのは、ブリンカーが外れた瞬間に見えた世界が、世界のすべてだと錯覚するのに等しい。これは、別の種類のブリンカーを装着していると言えるだろう。
これは学校教育でも同様だ。教科書と先生からの知識だけを頼りに学んできた生徒が、初めてインターネットに触れたとすれば、そこには同じリスクが存在する。多くの人が「いいね!」をしている見たこともない世界の情報に触れ、「これこそが本当の世界だ!」と思い込んでしまう危険がある。インターネットの情報は多様であるが、その信憑性や偏りを見極める力がなければ、新たなブリンカーを自ら装着することになりかねない。つまり、一つの権威から別の権威へと依存先を変えるだけで、本質的な変化は何もないのだ。
先日の兵庫県知事選挙では、東京中心のマスメディアの予想とは全く異なる結果が出た。SNSでの情報拡散やボランティア活動が大きな役割を果たし、従来のメディアが捉えきれない民意が現れた。この現象もまた、マスメディアというブリンカーが外れた瞬間に見えたSNSの情報が、相対的に「真実らしく」見えた結果と言えるだろう。しかし、これは本当に「真実」なのだろうか?
当然のことなのだが、新たに見えた世界も、また別のブリンカーによって制限されている可能性があるはずなのだ。SNSの情報はアルゴリズムによって最適化され、自分の興味や関心に沿ったものが優先的に表示される。そして「フィルターバブル」と呼ばれる新たなブリンカーを生成する。このフィルターバブルの中で、特定の意見や思想に同調する圧力、いわば「デジタル忖度」が生まれている。
学校教育に目を向けると、教師が求める答えを先取りし、迎合する「忖度」の心が育まれている現状がある。部活動でも授業でも、「先生が考えている答え当てゲーム」になりがちである。児童生徒は、学校教育の中で「成長」していくにつれ、自分の意見を持つよりことも、行間を読み、空気を読み、教師の期待に応えることに最適化されていく。この傾向は、批判的思考や主体性の育成を阻害し、新たな視点を持つ機会を奪っていると言えるだろう。教師の意図を汲み取ることは、コミュニケーション能力として必要な側面もあるが、それが行き過ぎると、自らブリンカーを装着し、思考停止に陥る危険性があるのだ。
文学教育においても行間を読むことが重視されるが、それが過度になると、作者や教師の意図を探る「忖度」に偏重し、生徒自身の自由な解釈や想像力が抑制されるリスクが生じる。ハイコンテクストで難解であればあるほど、生徒は自分の解釈に確信が持てず、教師や教科書が示す「正しい読み方」に迎合してしまいがちだ。これでは、文学が本来持つ多様な解釈の可能性や、想像力を育む力が十分に発揮されないはずなのだが、「正解」がないと成り立たない授業を、研究者のような専門性を持っているわけではない一般教員が担当してしまうと、指導書の記載事項をゴールとする授業をしてしまいかねない。
私たちは、視野を狭めるブリンカーが何であるかを常に問い続ける必要がある。それはマスメディアかもしれないし、インターネットかもしれない。あるいは、教育現場での固定観念や慣習かもしれない。あるいは、自分自身の思い込みや偏見かもしれない。大切なのは、多様な視点を持ち、批判的思考を育むことである。そして、他者への過剰な忖度ではなく、自分自身の頭で考え、判断する力を身につけることだ。
新しい環境や情報に触れるとき、それを絶対的な真実と捉えるのではなく、他の視点や情報と比較し、相対的に考える力が求められる。教育現場でも、生徒一人ひとりが自分の意見を持ち、それを表現できる場を作ることが重要だ。そうすることで、真の意味でブリンカーを外し、広い視野で世界を見ることができるようになるだろう。そして、他者に忖度することなく、自分自身の人生を主体的に切り開いていくことができるようになるだろう。
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