映画『花束みたいな恋をした』恋の一部始終のきらめきとしんどさ ※ネタバレ有
「あれ、わたし、菅田将暉(有村架純)と付き合ってた……?だってこの記憶、私にもある……。これってノンフィクション…?????」(混乱)
この映画を観て、「エモい」という言葉の無力さを知った。
今までクソデカ感情が爆発して抑えきれないとき、「エモい…」「尊い…」を語彙力無く乱用していた自分。しかしこの映画の前でその単語は、無力of無力……。まるでメジャーリーグのプロ野球選手を前に「少年野球ぶりにグローブさわりました~汗」っていう草野球のアラカンおじさんくらい圧倒的に無力でありました――。
▼「花束みたいな恋をした」とは
ある日、同じ終電を逃したことで知り合った大学生の男女が互いに惹かれあい、愛しく想いあうようになり、やがて2人を取りまく環境が変わっていく中で――2人の5年間を日記のように綴るラブストーリー。2021年1月29日全国公開の邦画。脚本・坂元裕二。
※※以下、ネタバレを多分に含みますので観賞前の方はご注意ください。
はじまりは圧倒的な共通点の多さ
同じ終電を乗り逃した。周りが気づかない押井守に気づいて興奮した。同じような本をよく読み、同じような音楽を聴いていて、同じお笑いライブに行くはず(だったけど逃し)だった。足元を見たらスニーカーがお揃いだった。持っていた文庫本を交換した。2人とも映画の半券を栞にするタイプだった。
2人の心の距離が急速に縮まっていく、高揚感。
こんなに自分と同じようなものが好きで、
同じようなことを考えている人と出会えたら。
彼女は「電車に乗っていて」を「電車に揺られていて」と話す彼の表現がいいなあ、と思った。
彼は「じゃんけん」についてずっと疑問だったことを、自分と同じように考えていた彼女のことをいいなあ、と思った。
奇跡みたいな恋の始まり。
婚活アプリでは絶対にふるえない「感覚」という項目
こういう、些細だけど自分にとって大切なポイントを好ましく思えるかどうかは、恋愛では大きなスイッチだ。映画を観ながらそんなすごく当たり前なことを思い出していた。年を重ねるにつれ、パートナー候補の基準が変わっていく。学歴、収入、家族構成、育ちの環境、どんな仕事をしているのか、休日はいつなのか。まるで家探しのような条件項目。マークシートのように誰が採点してもわかる回答があるもの。婚活アプリでもよくある項目。効率よく「絶対ナシ」の人を振るえるのは悪くないし、便利だ。もういたずらに恋愛に消費されずに相手を探すこともできる。
でも違う。全然違う。「あ、この人いいな」って思うポイントって、すごく感覚的なものじゃないだろうか。例えばこの麦と絹のように、他人からみれば「え、どういうこと?」ってちょっと笑いたくなるようなポイント。だけど自分にとっては凄く大切なポイント。そのポイントが重なったり、積み重なったり。そうやって誰かのことを好きになったり愛おしくなったりするものだったはずだ。この条件を満たしているから好き、ではなくて、ただ「好き」と思えるように人を好きになったのはいつが最後なんだろう。奇跡みたいに美しくて、見てるとちょっと恥ずかしくなるような二人を見つめながら少しだけ切なくなった。
「ほぼうちの本棚じゃん」
初めて麦の部屋に入ったとき、「ほぼうちの本棚じゃん」と言った絹。(人の部屋に入ってまず見てしまう場所が本棚、これはサブカル好きの住人としては首がちぎれるくらい頷くだろう…)
本棚って、ある意味その人の恥部。自分の好きなものもなりたい姿も詰まってる。それを他人にじっくり見られることが本来恥ずかしいものでもあるのに、絹は麦に「私たち同じだね」という意味の言葉を投げかける。
そして、麦がひっそりと描いていたイラストを見つけた絹は、「私 山音さんの絵好きです」と言うのだ。
人は自分と似たような感性の人に好意を抱きがちだ。さらにその人から自分が認められる、肯定されるという幸福感。恋愛でも相手から刺激を受けたい、と思いつつ、根本的には自分を肯定されて安心したい気持ちが大きいのではないだろうか。
そんな安全な場所で大好きな人に愛されて。もう好きとか愛しいが大爆発しないわけがない。狭いワンルームの部屋で1日中じゃれあって、大学も休んじゃって夢中になって。性欲、というよりも「好き」という気持ちが溢れすぎてそういった行為でしか消化することができない、そんな感じ。ほら、こんな経験、あるでしょう。麦と絹じゃないけど、誰かにこんな風に夢中になったり、相手も同じくらい自分に夢中になってくれたこと。食べるものがなくなってようやく2人でパジャマから着替えて外に行くこと。
着の身着のままで相手のピンチに駆けつけることができますか?
やがて多くの大学生と同じように、絹は就職活動を始めるがうまくいかない。麦はイラストを頑張ろうともがいてる。ある日、就活終わりの絹からの電話でなんとなく違和感を感じる麦。彼女は泣いていた。サンダルに100%部屋着で電車に飛び乗って絹のところへ向かう麦。私はここがすごく好き。
30歳以上のみなさん、これできますか?私は、自分はもうできないと思います。着の身着のままで向かえるほど若くない。そもそも、タクシーで向かうかもしれない。なんならタクシー代払うからおいで(来て)って言うかもしれない。相手の話は聞いてあげたいけど、重くなったフットワーク。まずは電話で話を聞こうとするかもしれない。いてもたってもいられず、そのままの格好で一刻も早く相手のもとへ駆けつける。これってすごくピュアだ。どんなに相手を好きでも、これが本能的にできるほどもう若くない。その一直線さがきらきらと眩しい。
「偉いかもしれないけど、その人は今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人だよ」と、麦が言う。(この台詞、後半でめちゃくちゃ効いてくるんですよ……坂元脚本、本当に凄いです…。)
この就活事件がきっかけで、2人は同棲を始めることになる。ここは幸せの絶頂最高潮ですからね。正直恥ずかしかったり微笑ましたくなったりで3000回くらい死にたくなった。非常に楽しいパートです。徒歩30分という利便性が決して良くない部屋に、2人の好きな本やマンガ、レコードを置いて「2人の部屋」をつくってく。カーテンを一緒に広げて(ここもポイントです…)、ウッドデッキをしいて、多摩川見ながらお酒を飲んで。近所に美味しいパン屋さん見つけて2人で1つの焼きそばパンを頬張って。いわば2人の好きなものをつめこんだ「世界」を構築していくわけですよね。そんなの楽しくないわけがない。
徒歩30分という決して短くない時間だって、2人にとってはかけがえのないもの。コーヒー片手におしゃべりするこの時間。「好きだから」苦じゃないし寧ろ楽しい。
「ダメじゃないけど、このままずっとこういう感じが続くのかと思ってたよ。」
でもいつまでも同じままではいられない。まして20代前半の2人は、人生が大きく変わるポイントがたくさんはらんでいる年頃だ。
一度はフリーターになった2人だけど、そしてそれはもう楽しく暮らしていた2人だけど、麦は就職して「普通」になることを決意する。「絹ちゃんとこの幸せな生活をずっと現状維持できるために。」
一方、絹もそんな麦をみて少し不安を感じながらも行動を始めた。まず簿記の資格を取って、麦よりもあっさり就職を決めるところがなんというか、女性的でもあるなあ、と思う。麦は「就職する以外は何も変わらないよ」と言いつつ、やはり少しずつまとう雰囲気は変わっていく。2人でやるはずだったゲームも、全く進まないまま。
たった一言で決定的に変わってしまったと感じた
麦が働き始めてから「幸せであったかくて安全だった世界」は変わっていく。あんなに2人が大好きだったカルチャーからも麦は離れていく。ゴールデンカムイは途中までしか読んでないし、今村夏子さんの新作も知らない。2人で「また再演してほしいね」って話していた舞台のことも頭から抜けてしまう。代わりにビジネス書を読むようになり、パズドラを無心でやっている。そんな中、いちばん「麦は本当に変わってしまったのだ」とわかる言葉があった。
「また映画とかさ、何かしてほしいことある?」
ここで、震えた。
たった一言で、こんなに全てを表すことができるものだろうか。映画…カルチャーは麦と絹にとってとてもとても大切なものだったはずなのに。2人が共有し、わかちあえるもの。けれど、麦にとって、もうそういうものではなくなってしまったのだ。絹が観たいというから観るもの。絹が喜ぶなら自分もしよう、と思えるもの。自発的ではない。かつての麦はもういない。
その言葉を言われたときの有村架純がそのことに気づいて、絶妙に絶望している顔をするのも、繊細な芝居だなあ、と思う。
お互いが好きで一緒に「楽しい」を共有していると思っていたものが、離れていく。この2人のような「共有」することによって愛を慈しんできた場合、それは絶望的に悲しいことだ。
一緒に居たいから現実を見て変わった男、そして女は
20代前半の男女が社会に出て大人になるにつれすれ違う…というエピソードでは、「男」より「女」の方が先に現実を見るのが定石じゃないですか。今の環境に揉まれてる内にあんなに大好きで素敵だった彼がくすんで見えるようになり、「もっとこうした方がいいよ」なーんて求められてもない助言なんかしちゃったりして喧嘩して空気悪くなってさ。身近にいるちょっと年上で経験も積んでる先輩がなんだか輝いて見えるようになっちゃったりして、、っていうのがよくあるパターンじゃないですか。
正直、今回もそうなのかな?架純(絹)が夢追ってる将暉(麦)に見切りつけんのかな?とか思っていた浅はかな私をどうかお許しください。大変申し訳ございませんでした…。
イラストを仕事にしたかったけど、思うようにいかない。絹とずっと一緒に楽しく幸せに生きていたかった、「絹ちゃんと出会ってから楽しいことしかなかった。僕の目標はこの生活を現状維持すること」出発点はここなのに、どんどん見ている方向の道は違っていった。
いちばん辛いのは、麦も絹も悪くない。むしろ、相手を思いやっている。麦も絹も相手のことを想って、できるだけ相手に寄り添おうとするし、相手の希望を叶えてあげたいと思うし、いつも相手を気遣っている。決してヒステリーになったりイラっとする我儘を言ったりしない。絹はよくありがちな「私と仕事、どっちが大事なの?」なんて絶対言ったりもしない。ただ、少しずつずれていった。それが大きくなって、2人はもう重なり合わなくなってしまった。それが一番切なくて、リアルだった。
うつくしすぎる恋の終わり
「楽しかったね。」と笑って追われる男女関係は、一体この世にどのくらいの割合であるんだろう。
別れようとした麦と絹、それでも最後にやっぱり別れたくないといった麦。それに揺られて流されそうになった絹。もし、あのかつての自分たちのような若い男女がいなかったら。目にしなかったら。
今はもう全然会話もなくて喧嘩にもならない、「感情が湧かないの」という言葉は非常に湿度を感じた。別れにはこれ以上無い理由だ。でも辛い。だってあんな風に花束みたいな恋をしてきた2人なのだから。だから、「……楽しかったね。」と泣きながらお互いを抱きしめて終われたのだ。
この映画はハッピーエンドではない。だけど観賞後は凄く爽やかだ。晴れやかな気持ちになる。きっとこの先、麦も絹もこんな恋はしないんだろう。だけど次に付き合う人をまた大切に思って、時々ふとお互いのことを思い出して、そっと手を振るんだろうな……。
・・・
そしてエンドロールが終わった後、冒頭の気持ちに戻るのである。「あれ、私って菅田将暉(有村架純)と付き合ってたことあったっけ……?」(違う)
そう思わせる理由は一体なんだろう。私は終電に乗り逃して偶然にも趣味嗜好がばっちり合う異性に出会って恋をして多摩川沿いのアパートで暮らしたことなんて、もちろん無い。普通に大学生やって普通に就職して普通に一人暮らしをしている、どこにでもいる会社員Aだ。
この作品は恋愛映画だけど凄くドラマチックなことがあるわけではない。障害があるわけでもない。だけどものすごく普遍的な恋愛だ。だから誰もが麦や絹に自分を重ね合わせてしまうんだと思う。
そしてこの作品、とにかく実在する人や作品名が出てくる。そうなると自分の実際の記憶と作中がどんどんリンクしていき、決して経験したことのない「明大前で終電逃して知り合った異性と5年間花束みたいな恋をした」というありえない記憶が脳に捏造されるのだ。そう、つまり20代後半~30代前半の皆さんはガチでリアル青春時代がリンクしますのでより刺さります。
▼初日舞台挨拶中継を見て
印象的だったことがある。「ずっと若者を書いてこられていますが、時代にあわせて意識していることはありますか?」と聞かれたときの坂元さんの言葉である。
「意識してないです。今の若者~とかってみると上から目線になったり見守ってる感じになってしまう。」
あんなに共感性の嵐を生み出す脚本、それは「意識していない」からこそ生み出される本物だったのか…と。もちろんリサーチはめちゃくちゃしてると思う。じゃなきゃあんなに時代に沿ったカルチャーも描けない。実際、今回の麦と絹のモチーフになった人間はいて、片方は「知らない人のインスタをウォッチしていた」とのこと。だからこそリアルすぎるくらいの人物描写なのか…と腑に落ちた。
同時期公開の「ヤクザと家族」も「名も無き世界のエンドロール」も同じ(映画という)チームだと思っている。一緒に頑張っていきたい。
この言葉も非常にぐっときた。緊急事態宣言発令中の今、映画館の多くは20時で閉館してしまう。仕事帰りに映画観て帰る…ということが実質できないのだ。こんなに素敵な作品が公開されているのに、観る機会が普段より圧倒的に少ないのは本当にもったいないこと。日本邦画界のために、頑張ってほしいし、たくさんの人に足を運んでもらいたい。
とにかく気持ちが溢れたから書いた
好きな脚本家、好きな俳優陣、好みのテーマ。元々期待値の高かった作品だがここまでとは。とてつもなく感動したので、とにかくこのあふれ出る感情をどうにかしたかった。だから書いた。かなり自己満的な要素が強いのですが、もしこのnoteを最後までお読みいただいた方がいるなら、本当にありがとうございます。
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