書評篇1:海妻径子『ゆらぐ親密圏とフェミニズム』
「恋愛=ゲーム論」に批判が加えられるとすれば、一つには「あまりにも議論が抽象的すぎて、現実の問題に対応できないのではないか」という批判と、もう一つには「恋愛の形式的な部分だけを重視して、そもそも人が何を求めて恋愛するのかの根源的な部分を軽視している」という批判が挙げられるだろう。
それぞれ、海妻径子『ゆらぐ親密圏とフェミニズム』(コモンズ、2016)を引用しながら検討していく。
「恋愛=ゲーム論」は「二一世紀の家族未来図」の夢を見るか
海妻は女性の貧困、とりわけシングルマザーの貧困と労働の長時間化、さらに公立保育の縮小によって十分子どもたちを預けることができない現状を取り上げつつ、以下のように問う。
この問いに対して、これまで考えてきたような「恋愛=ゲーム論」では役に立たないどころか、有害ですらあるかもしれないことを、私は認めることにしよう。
現実には、様々なバワーバランスの中でゆらぎ、望むような「親密圏」に預かることができない人がたくさんいる。日々自分の暮らしを支えるだけでも精一杯なのに、なお子供の面倒を見、恋愛に割ける余裕すらない中でなお「私にも再びパートナーになってくれる人が訪れれば、今の負担は軽くなるだろうか」と悩むような、例えばそういうシングルマザーに、私は「恋愛は所詮ゲームですよ。簡単です」などと安易な気持ちでいう気にはならない。
「一定の条件が整い、ルールが守られる状況でなければ、人は安心して恋愛に夢中になれない」、これも私が「恋愛=ゲーム論」を展開する中で一貫して考え、伝えてきたことである。しかし、これにも問題があった。条件を満たせない、ルールが守られない状況下では、人は恋愛をしてはいけないのか。シングルマザーはどこまで条件を満たしているのか。具体的な人々の困難に寄り添って条件やルールに関する議論を積み重ねていくことは、これまで十分にはできず、あくまで私の感覚に基づいてこうだと決められる範囲で構想した。もちろん、十分だとは思っていない。しかし、だからといってさらなる検討やブラッシュアップが必要だ、と前に進めようとする前に、考え直すべきことが山積しているのではないか。書評編では、様々な文献のことばを引用しつつ、それらを「恋愛=ゲーム論」に対する批判材料として検討し、恋愛をゲームとして捉える見方の何が問題なのか、どこまで妥当なのかを検討していく。
それにしても、親密圏をめぐる議論の目指すべき方向性が「二一世紀の家族未来図」か「懐かしき下町の風景」かどちらかになってしまうというのは興味深い。これまでの日本にない新しい図式や考え方を持ち込もうとすれば、俄然「二一世紀の家族未来図」型の奇妙なジェノグラム図式を描く学者が現れたかと思えば、他方では「懐かしき下町の風景」を思い起こしては、理想の親密圏は既にここにあった、と発見し直したり懐かしんだりする人達がいる、ということだろうか。いずれにしろここには結局、進歩史観であれ頽落史観であれ、親密圏のあり方の変化が常にクロノロジカルな変化である、という前提がないだろうか。
加えて、私はQueerな立場でものを考えている都合上、どういう訳か「二一世紀の家族未来図」を構想する派閥に組み入れられることに、なってしまう。そもそも、〈家族〉という枠組みを私は好まないので、「未来の家族のかたち」などというものには興味がない。むしろ〈家族〉そのものをどこまでも解体しつつ、〈家族〉を脱構築して別の親密性の形を生成したり新しい親密性を発明したりできないかという可能性にとても関心がある。そういうことも含めて、あなたは「二一世紀の家族未来図」派だ、と言われてしまうと、どうとでも言えば、という気になってしまう。
恋愛はゲームである、という見方によって真っ先にやりたいことは、恋愛を出来事として取り出して、ライフコースや親密圏といった概念で言い表わそうとしている持続的な流れから一度切断することである。それから、恋愛を素因数分解する、つまり、恋愛はどのような要素によって構成されている社会的構築物であるかを極めて簡潔に記述することだ。この見地からすれば、まず親密圏のあり方の変化はクロノロジカルに進化したり頽落したりするものではなく、ある種の事件であり突発的に生じては滅びを繰り返すダイナミックな生成変化として記述されるであろう。ある革新的な親密性を保ったコミュニティが、歴史のある時点で突発的に出来事として生成され、ある時点から急に力を失うということは、何も不思議なことではない。むしろ、この繰り返しが我々の親密性の歴史ではないか。次に、恋愛=ゲームであるという見方が可能であるならば、親密圏がどのような形になるのかについては、恋愛というゲームのある種の副産物でしかないことになる。また、副産物である以上、どのような親密圏の形が出来上がったところで、恋愛というゲームの預かり知らぬところとなる、という意味でどのような親密圏を目指そうが各人の自由ということにもなる。恋愛というゲームを無事クリアしたあとに、「二一世紀の家族未来図」が開かれるのか、「懐かしき下町の風景」が見えるのか、それともまた別種の風景・関係性が開かれるのかは、ただ各プレイヤーの振る舞いと求める合意の内容による。
結局のところ、シングルマザーにはシングルマザーの恋愛=ゲームがあってよいのではないだろうか。むしろ問題なのは、様々な恋愛=ゲームを成り立たせるための一番シンプルな原則に混乱があることもそうだが、社会が安全だとか浄化だとかいう名のもとに人との出会いの回路を自発的に断つことだ。世の中には様々なコミュニティであふれ、またインターネットを通じて様々なコミュニティにアクセスしたり自分で作ったりできるようになって、一見人と人の出会いの選択肢は増え、多様化しているように見える。しかし一方で、貧困を抱えていたり情報弱者であったりするがゆえに、参入できない、親密になれないという困難もあふれかえるようになったのではないか。現代においてそうした孤立した人々が抱える「出会いの回路の貧困」の苦しみは深い。「恋愛=ゲーム」とシンプルにすることによって、そのような出会いの回路の貧困にどこまで手を差し伸べられるのか。それはわからない。別の考え方が必要なのかもしれない。稿を改めて考えてみたい。
「親密圏の作法」を考える
「恋愛=ゲーム論」を展開する上で私にとって関心が高いことの一つに、恋愛=ゲームという見方によって、いわゆる「モテない」という悩みにどのように応答可能か、というものがある。この点について海妻が、「もてない男」がなぜモテないのかに関して、面白い論を展開している。
この文章から思い起こすのは、私が初めて少女漫画を読んだときに感じたある種の幸福感である。
先に断っておくと、私は少女漫画が好きではない。あまりにも男性というものを「直ちに災難から守ってくれる存在」「自身の快楽のために献身的に尽くしてくれる存在」として都合良く描きすぎているからだ。少女漫画特有の男性のデフォルメなのだろうが、やはり「そんな男いねぇよ」とどうしても言いたくなるのをこらえきれない。私が初めて少女漫画を手に取ったのは二十歳前後のことだったから、既に少女のまなざしは失われているし、様々な学びを経て手持ちの価値観が揉まれ相対化され尽くしている渦中にあっては、少女漫画を読んだからといって「お嫁さん願望」なるものが新たに芽生えるはずもなかった。
それでも、少女漫画にはある種の幸福感があった。「勝ち/負け」の評価基準で物語空間が汚染されていないこと。強い者に成長せず弱いままでいても愛されるし、愛されていいということ。友情よりも愛情を積極的に語っていること。これらは少年漫画にはない。だからこそ、男女問わず誰もが通過点として読むべきだ。少なくとも私は、もっと若い感受性があるうちに読みたかった、と後悔したほどだ。
おそらく、世の大半の男性は少女漫画から何も学んでいない。女性はどういうロマンスを求めているのか。男性からどんな愛情を女性は求めるのか。女性から見て理想の男性像とはどんな男性か。少女漫画にはかなりはっきりと描かれている。にも関わらず、読みすらしない。確かに、それらの描写はロマンティック・ラブ・イデオロギーに汚染され尽くしているかもしれない。だとしてもだ。知らない、自分の趣味ではない、ということで済ましていいのだろうか。日常の平凡なひとこまの中に、「一緒にいられてよかった」という小さな小さな幸せを感じる体験については、少年漫画より遥かに少女漫画のほうが饒舌である。もてない男に欠けているものがあるとすれば、若い感性のうちに少女漫画を読むという原体験だと言い換えても、罰は当たらないのではないかとさえ思う。
無論、「親密圏の作法」の学習を担う教材は、もっぱら少女漫画だけに限ることはない。多くの人にとっては、学生時代の恋愛や友達との間の遊びによって「小さな幸せ」の存在を確認し、小さな幸せに触れることを通して、人と人とが親密になるとはいかなることかを学んでいく。ただし、挫折も多く、親密さを学ぶよりは人と人との断絶や拒絶感を学ぶことのほうが多い。リアルな関係を教材としている以上、関係性の中での傷つきは深い。その点、少女漫画は比較的愛情や親密さについて、挫折したときの乗り越え方も含めて、教材としては痛みが少なく、安全で廉価にロマンスを提供してくれる。
さて「恋愛=ゲーム論」は人が「小さな幸せ」を他者と育み、大事にするプロセスに対してどのように関与しようとしていくのか。「親密圏の作法」の定義を、「恋愛=ゲーム論」は定めようと目指しているのか。ある側面では、そうなのかもしれない。とりわけ、恋愛=ゲームにおけるプレイヤーの心的態度として、人間尊重的な態度が要請されることを私たちは確認してきた。相手を思いやり、協力的な関わりによって「一緒にいられてよかった」とお互いが思えるようになるには、まずプレイヤー自身が恋愛において求められる心的態度に充分呼応しようとする意志が必要だ。加えて「一緒にいられること」自体に幸せを感じ、それ自体を幸福として享受する価値観を育むには、世の中にはあまりに有害な価値観が横行している。ロマンティック・ラブ・イデオロギーや少年漫画的なマチズモがそれに当たる。そういった有害な価値観から袂別しつつ、人は人間尊重の原理を学んでいく必要があると私は確信している。そのために、「シンプルな恋愛=ゲーム」の開発によって人と人とが親密な関係性を生成し、持続させるために必要な最小限のサブセットを用意することもまた、「親密圏の作法」を人々が学んでいく上で意義のあることなのではないかと私は思っている。
しかし同時に、「恋愛=ゲーム論」は目標である「恋愛をシンプルで簡素なものに変えていく」ために、「一緒にいられてよかった」という「小さな幸せ」は所詮ゲームの副産物にすぎないと、突き放した見方をする必要があるとも言わざるをえない。私がとりわけ恋愛の形式的な部分にこだわるのは、社会的に構築された恋愛という営みの、その構造自体に制度疲労が生じ、そのヒステリシスによって様々な親密圏にまつわる悩みや苦しみ、社会課題が噴出しているからなのではないかという疑問からである。どう考えても、恋愛→結婚→出産というライフコースを前提とした恋愛は、現状から言って様々な無理がある。無理があるというのが言い過ぎならば、「小さな幸せ」と引き換えに膨大な苦労や苦痛を背負わされる、どう考えても割の合わないシステムになっている。これは明らかに、社会に問題がある。恋愛はある種社会構造の問題の縮図となっている。我々が恋人と手をつなぐささやかな幸せを享受している間にも、様々な苦痛の装置が歯車を回しているとしたら、しかもその装置の停止は人一人の力では全く不可能だとしたら、無理に巨大な社会の機構を停止させようとするのでも、考えても無駄だと思考停止するのでもなく、まずは何が歯車で何が副産物として生成されているのかを見定めようと努力することではないか。「シンプルな恋愛=ゲーム」はそれを解析するための小さな装置でありたいと願う。
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