Gutto NEET Note 09
いきなりだが、私は第8回である今回の講師に
喧嘩を売る
つもりで文章を書くことにした。
どういう喧嘩なのかは、文章の後半で明らかにしていこうと思う。
自分で言うのも何だが、私は人に喧嘩を売るということを全くと言っていいほどしない。
挑発もしない。
人生に一度あるか無いかの、ものすごく珍しいことだと自分でも思っている。
ただ、人生で一枚だけ、「シャレになんないくらいの本気の挑発や喧嘩をしても罪に問われないチケット」を神から与えられたとしたら、私はそれを今回の講師であるぼりさんに使う。
多分、料理を作る人間として、一度ガッツリ喧嘩しないと、私が次のステップに進めないように、本気で思っているからである。
だから、ぼりさんがこの文章を読んでくれるのだとしたら是非、
「果し状」
だと思って(長いですけれど)読んでもらいたいと思っている。
少なくとも、それくらいの覚悟でこれを書いている。
それだけは、最初に伝えておきたい。
講師紹介
その前に、講師の紹介をしよう。
今回の講師はぼりさんである。
思えば、ぼりさんにリアルで会うのは去年のコミュニティシャッフル運動会以来である。
初めて会った時の彼は、運動会で「ハイパーリバ邸」チームを率い、栄誉の最下位を受賞していた(ちなみに、我がシェア街チームは「最下位の一個上」という何の盛り上がりもない事実上の最下位、しょーもない弱小ぶりを見せた)。その時の、ぼりさんのテンション高い喜びようと言ったら。
あの時ほど、「順位は辛うじて上回ったがそれ以外の全てにおいて負けた」という清々しい屈辱感を感じたことはなかったものだ。
思えば、今回ふっかける喧嘩も、その時の屈辱を晴らしたいという無意識の何かが書かせているのかもしれない。
そんなぼりさん、かつては板前をしていたという経験の持ち主でもある。
講座を受講した後になって発見して読んだのだが、とても読み応えのある略歴で、ぼりさんこと大堀悟という一人の人間がどういう生き方をしてきたのかが分かりやすくまとまっていて、非常に面白い。
これは是非、読んでいただきたいと思う。
元板前というくらいだから、当然だが料理が上手い。
飲食業界・板前業界の酸いも甘いも経験し尽くした男でもある。
そんな彼から、今回は「唐揚げ」を習った。
場所は、モテアマス三軒茶屋のキッチン。
振る舞う相手は、味にうるさいモテアマスの住民やたまたまいたゲストの皆さん。
電車に乗り遅れた都合で30分遅刻してしまったが、モテアマスに来ると早速唐揚げ会の仕込みが始まっていた。
唐揚げ会全貌
調理過程
今回の唐揚げ会のレシピはこのような感じだ。
■レシピ動画
基本的には、↑この動画の作り方の通りに調理が進んでいった。
私が意外に思ったのは、まず、材料がシンプルと言う点である。
味付けも、にんにく、生姜、醤油、酒と極めてシンプル。それ以外に何も足したり引いたりしないし、何よりどこのスーパーでも必ず手に入る品であることもポイントが高い。
また、味付けの工程も極めてシンプルだと言うことも驚きだった。私もてっきり唐揚げというので、味を染み込ませるために何時間も肉を漬け込むのかと思っていたが、このレシピであれば材料さえあれば調理を開始してすぐに調理が完結するように出来上がっている。
何より、効率の上でも調理のサイエンスの視点から言っても大変理に適っている。確かにこのレシピで揚げると、衣はサクサク、中はジューシーなのである。よくあるパサパサの唐揚げも私は好みだったりするのだが、パサパサとぼりさんの揚げる唐揚げ(以下、ぼり唐)を比べて、どちらが上手いか軍配を上げろと言われたら、私を含めて大勢の人が後者と答えるだろう。
実際、調理を自分でやってみると、これがなかなか奥が深い。
包丁で鶏胸肉を均等なサイズになるように薄く切るのも練習が必要だし、切った鶏肉に対して醤油がどれくらい必要なのかも微妙な感覚で覚えるしかなかった。
だが、何より奥が深いのは、揚げる工程である。
五感を研ぎ澄ませて、微かな音の変化、色の変化も見落とさないように、最初は意識しなければいけない。唐揚げにも衣のメイラード反応があり、カラメルソース作りや珈琲焙煎と似ているところがある。何が似ているかというと、
上げるのが早いと生焼けになるが、1秒でも遅いとすぐに焦げてしまう
従って、仕上がる1〜2分前は全く気が抜けなくなる
逆に、5〜10分前くらいまでは待ちの時間なのでひたすら暇
とはいえ、音や色の変化は重要なので、暇ながらも初期状態は必ず頭にインプットしておかなければならない
要するに、最初のうちは一切気を抜けないわけなのだが、待ちの時間は講師に釣られてひたすらビールを2缶も3缶も空けて飲んだりして酔っ払ってしまった。この時、酔いを適度に抑えておけば、あんな失敗はしなかったろうと思うのだが……それはまた後述しよう。
出来上がった唐揚げは、それはもう、美味しかった。
何個でもいけてしまうくらい、衣はサクサククリスピー。おまけに、味がしっかりしていてかつジューシー。これを最強の唐揚げと言わずして、何というのだろう、というくらい美味しかった。
1回目はぼりさん自ら揚げてくれたが、2回目からは私の手で揚げるようになり、3回目以降は完全にぼりさんの手が離れて一人で揚げることになった。
3回目は手を離れたてだったせいか私も緊張してしまい、上げるタイミングをミスってぼりさんに「揚げすぎです」と指摘されたが、その反省を踏まえた4回目はバッチリの出来だった。なかなかコツが掴めずに終わる場合もあっただろうが、何とかコツを掴めるようにもなってきた。
食べている皆んなも、「ぼりさんの唐揚げ」という認識からだんだん「のんさんの唐揚げ」という風に認識してくれて、美味しい美味しいと頬張っている姿も見受けられるようになる。
とても平和で、穏やかな光景。
自分の作った唐揚げで、談笑したり話題に上げてくれて、目の前で人が喜んでいる!
みんなのお腹も満たされて、最高にハッピー!!!
私が見たかった光景が、まさにそこにあった……
……
……ように、思えなかった。
違和感の始まり
むしろ、心の中は何か満たされない思いと、納得しきれないモヤモヤでいっぱいになっていく。
ぼりさんは隣にいて、向かいの女性とボケ・ツッコミの話で盛り上がって談笑している。
ねぇ、何なんでしょうね、この感じ?
本当は、相談したかったのかもしれない。
その場で質問して、言葉にして、ぼりさんに相談に乗ってもらえたなら、遅ればせながらこのnoteを持って「果し状」を突きつけるなどという真似をしないでも済んだのかもしれない。
だが、その時は自分でも未だ言語化できなかったし、せっかく出会えた向かいの女性と盛り上がっているトークを遮るのも無粋かなと思って、黙ってしまった。有体に言えば、話しかけづらかった。
モヤモヤが募るまま、酒だけは進む。
そうして、酒を飲み過ぎたせいもあってか、私は最悪の事件を起こしてしまう。
最悪の事件(※スキップ推奨)
※以下、加害体験を記述します。特にセクシュアルな傷つきがある人におかれましては、読むのがつらくなる恐れがあるので、飛ばすか、ここでそっと閉じてください。
とあるゲストの女性が、帰り際に
「のんさんの唐揚げ美味しかったです。ありがとうございました」
といった。
「ありがとうございます!」
と返した、それだけなら良かったのだが、あろうことか
「抱いてください!」
と酔った勢いで続けざまに言ってしまったのだ。
みるみる青く引くゲスト女性の顔。
「(モテアマスの住民に言うのはまだしも)ゲストに言うのは最低だよね」
とすかさずマキタさんの注意が入る。
即座に、自分のしてしまったことがセクハラであることを悟った。
酒の勢いでセクハラしてしまった。
何の罪もなかったはずの、私の唐揚げを褒めてくれた素敵な女性に対して、私はセクハラという暴力を振るってしまった。
やってしまった。
最低だ。
また、女性を傷つける加害の罪を背負ってしまった。
なんて、卑劣なんだろう自分は。
私に生きる価値なんて何もない。
ゲストが帰ってから隣にいたげんとぉ〜さんが「グットニート養成講座の講師だから言うけど……」とさっきの過ちの何が良くなかったのかを丁寧に教えてくれたが、ほとんど耳に入らなかった。
酒の勢いにしても「抱いてください!」はあまりに酷い。
何も面白くないし、そもそも初対面の人にみだりに言っていい言葉じゃない。
自分で自分が信じられなくなった。
そこからの数時間は、真っ暗闇に沈んだような気分で、あんまり記憶にない。
※加害体験記述終わり
事件に関する注釈
この加害体験は、あくまで第一義には愚かな私の後生の戒めのために記録しておくのであって、露悪趣味があるからではない。
酔った勢いでしていい行為ではないともちろん認識して、その上で書いているし、被害者のゲスト女性に対しては本当に反省と慚愧の念しかない。
もう一つ、念の為だが、付け加えておく。
このエピソードはグットニート養成講座のぼりさん回で実際に起こったことだが、読んで分かる通りこの事件に関してぼりさんには全く責任がない。あくまで私一人が起こした事件である。
だからこそ、見つめておかなければならない大事なことがある。
もし、ぼり唐を習う過程で生じてしまった心の変化の中に、もやもやや違和感が自分の中で生じたとしたら、
そしてそのもやもやの蓄積からくるストレスが、酔った勢いで人を傷つける形で噴出したと考えられるとするなら、
私自身の責任において、真正面から自分に向き合い、事件を克明に振り返ると同時に、自分が何をしたのか、何が自分をもやもやさせてしまっているのか、自分の問題として真摯に取り組まなければならない。
唐揚げ上手くなった!……うん、それで?
ぼりさんの講義があった9月8日から、ずっと考え続けた。
あのモヤモヤは、何だったのか。
何かが傷ついていたように、感じた。
深く掘り下げてみると、自分にもあるのかと正直驚いたくらいだが、料理を作る人間としてのプライドが、傷ついていたようだった。
思えば、最初にモテアマスに来た日、私は得意料理のスパイスカレーと自家焙煎コーヒーを振る舞ったものだ。
スパイスカレーと、自家焙煎コーヒー。
私がモテアマスで最初に振る舞って、最初に喜びの声を聞くことができた料理だった。
作ろうと思ったのも、単純な理由だった。
一泊させてもらうので一宿一飯の恩義も兼ねて、私の得意料理で喜ばせてみたい!
そう思って、作った。
あの時は、クリスマスも近い日で、ホテルオークラだったかどこだったかの有名ホテルから取り寄せた特大ケーキをみんなで食べよう! みたいな日で、モテアマスのリビングに沢山人が行き交い賑やかだったから、結構な人数の人が私のカレーを食べてくれて、口々に美味しいと言ってくれた記憶があり、嬉しかったのを覚えている。
それ以来、頻度は少ないもののモテアマスでカレーを振る舞ったことがあり、モテアマスの中でも知る人ぞ知るではあるが「鹿音のん=(スパイス)カレーの人」と認知されることにもなった。
ぼりさんは、その遥か前から「ぼりさん=唐揚げの人」としてリバ邸やモテアマス含め様々な場所で唐揚げを振る舞っていたと言える。
ここで、ぼりさんから聞いた「ぼり唐誕生秘話」を紹介したい。
ぼり唐はぼりさんの答えであって、私の答えではない!
ぼり唐はなぜ生まれたのか。
繰り返すようだが、ぼりさんは元板前。
魚を捌いたり、すまし汁を拵えたり、そういった和食が得意分野の人である。
それがどうして、唐揚げという、同じ日本食ではあるが料亭や割烹の世界ではメジャーではない料理を極めるようになったのか。
ぼりさんには、板前を辞めて初期の頃に運営していたシェアハウスがあった。
ぼりさん自身、そのシェアハウスを立ち上げた当初、板前修行で鍛えた腕前を存分に活かして、日常的に鯛のお刺身の盛り合わせなんかを出せたらいいなぁ〜、と考えていたようだった。
そして、振る舞ってみたりもした。
ところが、それがなかなか思ったようにウケなかったらしい。
そこで、唐揚げを作ってみたという。確かに、唐揚げが嫌いな人は、日本広しと言えども中々いない。
すると、これがバカウケだったという。
これまでの努力は何だったんだと思ったりもしたようだが、結局みんなが美味しい美味しいと言って求めてくれるので、色んなところで唐揚げを作り続けていたら、いつの間にか「ぼりさん=唐揚げの人」になっていたという。
「自分が得意で好きなことと、他者が好いてくれる自分(他者が自分に好きで求めてくるもの)は、必ずしも一致しない」
といういい例であり、これだけを聞けば美しい話のようにも聞こえる。穿った見方をすれば、よくある成功譚の一つのバリエーションと言ってもいいかもしれない。
ところが、私がぼり唐を作ってみて感じたのは、「自分が得意で好きなことと、他者が自分に好きで求めてくるものは、必ずしも一致しない」体験を自分事として受け止める上で一番大事なポイントは、その事実を見出した光明体験の方ではなくむしろその前に「自分の得意分野が人にウケなくて心が折れた」体験をしていることの方であることがわかる。
ぼりさんの場合であれば、唐揚げに行き着く前の、本格的な和食をシェアハウス住民に振る舞おうとしてみたりとかして、思ったようにウケなかった、その挫折体験の方に実は価値があるはずなのだ。挫折や問題が生じた上でのソリューションとしての「ぼり唐」だったはずなのだ。
そこには多少なりとも苦悩があったかもしれないし、料理人としてのプライドが傷つく、なんてこともあったかもしれない。
そこら辺の話を、私はじっくり聞きたかった。
なのに、そこをぼりさんはあっけらかんと短縮して話をしてしまった。
だから、美しい話のようにも聞こえるけれども、私の心には響いてこなかったのだ。
そう、だからこそ、所詮私がグットニート養成講座でぼり唐をマスターして、後日モテアマスで振る舞って、大ウケしたとしても、それは「あらかじめウケるとわかっていることを再現して見せただけ」であり、それはどこまでも人の褌で勝負しているだけのことに過ぎない。
人の褌で相撲を取ったら、あっさりと勝ってしまった。
そこに一体何の喜びがあるのか。
Lv.1の勇者にいきなりエクスカリバーを持たせて「どうだ、無双状態も楽しいだろう!」と唆すようなことを、この私にするつもりで、ぼりさんは私にぼり唐の作り方を教えてくれたとでも言うのだろうか。もし仮に、本当にそういう気で私に教えたのだとしたら、それはそれで残酷・悪趣味だし、何より余計なお世話というものだ。私は私で、米粒より小さい結晶ながら、「カレーの人」と認知してもらうために積んできた努力の結晶がある。
ぼり唐に辿り着くまでの努力は、レシピを研究したり実際に調理過程を辿ってみたりすれば分かる。よく考えられている。よく工夫されている。よく研究されている。それが痛いほど分かるから、あえて私はぼりさんに喧嘩を売ることになるかも知れないことを覚悟で言うのだ。
ぼり唐は私の料理にはならない。
同じ唐揚げを作るにしても、私はもっと別の唐揚げを研究して、ぼりさんと真っ向から勝負する。
なぜなら、ぼり唐はぼりさんが出した答えであって、私の答えじゃないのだから。
料理はエゴイズムだ!
とはいえもちろん、唐揚げやスパイスカレーを含めて、あらゆる「料理名がちゃんとついている料理」のレシピは——よっぽどのオリジナリティや創作性がない限り——どこまで行っても「人の褌」である、とも言えてしまうわけで。私だって「人の褌では勝負しねぇ!」と叫びたい、とは言え、「完全オリジナルで勝負してやる!」とまでは思っていない。
だが、だとしても私自身をしてぼり唐に対して執拗なまでの反抗心・反撥心を抱かせるものは、一体何なのか。
考え抜いた結果、つまるところ、それはエゴイズム以外何者でもないという結論に達してしまった。
料理はエゴイズムである。
手に入る食材を、出来る限り見た目にも綺麗で、出来る限り旨い味にして食べたい、という人のエゴが生み出したグロテスクな怪物だと言ってもいい。
そうでなければ、何だと言うのだろう?
鶏肉だって、ただ何の味付けも無しにフライパンでそのまま丸ごと焼いて食べるだけでも全然胃袋に収めるには十分だし、食品衛生上アウトなのは承知で言うが、スーパーで買ってきたパックの状態から取り出して生のままかぶりつく、というのも可能と言えば可能なのだ。それを料理とは言わない、と人は言うかもしれないが、だったらなぜ衣をつけて油で揚げるなどという手間のかかることをしたがる欲求を、私たちは持ち合わせているのだろうか。唐揚げが食べたい、唐揚げは旨い、唐揚げは美しい……全ては自分のエゴであり欲求をいかに美しく満たすかということだけであって、それ以上の高尚な精神性を求めるなどと言うことも結局、社会やコミュニティが用意したフレームワークに踊らされてその事実を直視していないだけないのではないか。
もっと言ってしまおう、人が食材調理に対してエゴイズムを発揮するからこそ、料理はより美味しくなる。
人は基本的に自分の食いたいものだけを食う。食いたくないものはわざわざ料理として作らない。
食いたいものは何回でも食べたいから、必然的に上手に調理しようと努力する。
「食いたい」と努力した料理から、ちゃんとレシピを覚えるし、何回も作るから料理の腕も上達する。「食いたい」と言う純粋なエゴがなければ、料理の腕は上達しないのだ。
そのうち、レパートリーは複雑化し、調理の手段や方法も複雑化していく。もっと美味しいものを食べたい、もっと美味しく調理したい、もっと人をあっと言わせる美しい料理に仕上げたい……全てはエゴなのだ。
人はエゴが満たされると気持ちいい。
エゴが満たされると、色んな意味で「おいしい」。
エゴを満たすという動機がなければ、「鶏肉が食べたい」で十分なはずなのであって、わざわざ「鶏肉を唐揚げにしたい」「唐揚げを食べたい」などと欲求することはなくなるのではないか。
結局、「唐揚げで人を喜ばせたい」と言ったところで、因数分解していけば複雑なエゴの組み合わせであり絡み合いに過ぎないのではないか。
エゴイズムである以上、「自分が美味しいと思うもので、人を喜ばせたい」と思って、我が道を突き進めばいいだけのことだ。
こだわり抜いた食材を使って、こだわり抜いた洗練された調理法でもって、人をあっと言わせる一皿を提供しようと努力しまくればいい。ついでに言うと、シェフの「こだわり」、これもエゴの最たるものである!
エゴも突き抜ければ、一流のシェフを生み出すかもしれない。
エゴも突き詰めれば、周りだっていずれ「美味しい」と納得するに違いない。
誰も料理人のエゴイスティックな側面には触れない。
味が美味しければ、調理法が適切であれば、完成する料理は完成するし、「美味しい」以上のことは、誰も文句を言わないはずなのだ!!!
さて、あえて一旦、「料理はエゴイズムだ」と、こう言い切ってしまってはみたものの、どこかに後味の悪さ、一抹の不安が残ってしまうのは、なぜなんだろう。
料理は間違いなくエゴイズムだと私は思う。
ただ、エゴイズムを食いたいか、と問われると、答えに窮してしまう自分も同時にいる。
理解できないのだ。
なぜ、ぼりさんが、元板前としてこれまで磨いてきた和食の料理人としての研鑽で勝負せず、あえて「ぼり唐」の道に進むことができたのかが。
説明がつかないのだ。
なぜ、「ぼり唐」からは、エゴイズムがほとんど感じられないのかが。
シェアハウス立ち上げ当初の、和食を振る舞おうと夢見ていたぼりさんの件のエピソードだけを聞けば、穿った見方をして、やはりぼりさんにも和食の料理人としてのエゴイズムがあったんだべな〜、という邪推なんかを私はしたくなってしまうわけで。
だからこそ、問い詰めたい。
和食の料理人としてのエゴイズムはどうしちゃったんだよ、と。
「ぼり唐」にたどり着いたおかげで、よもや、「自分はエゴイズムから抜け出すことができました」とでも言うつもりなのかよ、あんたは、と。
エゴイズムから抜け出すのが如何に至難の業か、私自身今まさにジレンマとして抱えているからこそ、性悪にも、詰問したくなるのだ。
本当の課題が見える瞬間
この際はっきり認めよう。
私の料理は、ほとんど、いや、全くもって、エゴイズムの塊である。
私は基本的に自分の食べたいもの、作りたいものしか作りたくない。
基本的に、自分が納得したものしか人様に出したくない。
ただそれは、何か高尚な精神性のようなものが原動力になっているわけではなくて、単純に「得意な料理でモテたい」というエゴイズムしかないのである。
飲食店で料理を作った経験は学生時代のバイトを除けばほとんどないに等しいが、一応は自分の作った料理を気心知れた友人に出して喜んでもらった経験や、マルシェイベントに出店した経験もある。
それでモテたかと言われると、確かに、モテた。
モテたけれども、ある程度のところまでしか、モテないのである。
最後の最後で、エゴイズムが邪魔をする。
最後の最後で、エゴイズムが料理の味に出る。
エゴイズムが染み出して、毒になる。
だから、周りは確かに「美味しい」とは言ってくれるけれど、その先が続かないのだ。
そうとしか表現しようがないし、そうとしか説明しようがないのだが、実際に私の眼前で幾度となく起こってきたのは、そう言うことだった。
その現実に、私は改めて、向き合わざるを得なくなった。
ぼり唐が目の前であっという間に消費されていく様を見ながら、私は心のどこかで痛感していたのだった。
ぼり唐を超える料理は、私のレパートリーにはどこにもない。
むしろ、私の腕から生み出されるものは、エゴイズムの塊しかない。
エゴイズムを抜いたら、私の料理からは何も残らなくなってしまう。
そんなの、嫌だ。
なぜだか知らないけど、私は認めたくない!
決して認めてなるものか!!!
そう、ここでようやく、例の最悪の事件につながってくる。
つまりは、最悪の事件で描いたことは、他でもない私自身のエゴイズムが、毒となって暴走し、件の妄言と言う形で現れ出てしまった、そのように分析することができる。
もちろん、エゴイズムを持っているエゴイスト全てが私のようにセクハラするわけではないという意味でも、何の言い訳にもならないどころか私のしたことが免罪されるわけでもないことは繰り返し申し添えておくし、ゲストの被害者女性は単純に、運悪く私の歪んだエゴイズムの表出にぶつかってしまったということにはなるが、だからと言って、モテアマス民なら大丈夫かとか、そういう問題でもないことは、当然、重々、認識している。
だからこそ、こうして正面から赤裸々に語ることを通し、自分のしたことが何であったのか考え抜くことを通して、自分自身のエゴイズムと向き合い、二度とあのようなセクハラ事件を繰り返すまいと、重ね重ね、胸に手を当てて誓うのだ。
エゴイズムを超えて
考えてみれば、料理は一つの自己表現なのだ。
自己表現である以上、料理に限らずあらゆる表現に関して、
「エゴイズムとどう向き合っていくか」
という課題は必ず付きまとう。音楽でも、絵画でも、文筆でも、ダンスでも……ひょっとしたら運送業や倉庫作業といった肉体労働・単純作業でも言えることなのかも知れない。
自分のエゴを排除すること、これは基本的に人間には不可能である。
どんな表現にも必ずエゴは付きまとう。厄介なことに、どんなに深い無心状態、瞑想状態に入り込んでいたとしても、それは付きまとう。
だから、悟りを開けばエゴを排除できるだとか、無心になればエゴが取れるだとか、そんなことは絶対にあり得ないし、一部の特殊な訓練を積んだ人間でもない通常の人間には尚更何の関係もない話である。
かと言って、自分はエゴイストだと居直り続けるのは、これもまた獣の道を一人歩むようなもので、必ずどこかで孤独を抱えるか、消耗するか、どちらかの末路を辿ることになる。エゴの暴走は人間関係を悪化させたり精神状態を破壊したり、最悪の場合、人を殺すこともあるからだ。
大概の人は、エゴとうまいこと共存する道、折り合いをつける方法を人生が成熟する各段階においてその都度上手に見つけている。
繰り返すが、あらゆる料理はエゴの産物と言い切っていい。だが逆を言えば、エゴを上手に活用できると、料理を上達させる原動力にもなるし、新しい料理を発明するクリエイティビティにもつながるのだ。
エゴは決して、常に敵であるというわけではない。
ただし、乗り越えられるべき或るものでは、あるかもしれない。
私はその境地に未だ立ったことがないから、分からない。分からないから推測するしかないのだが、
おそらく料理を極めていく中で、どこかでエゴイズムの限界を迎える瞬間があり、
それを超える瞬間が訪れる時がある。
そうして、エゴイズムを手放すことができる瞬間がどこかで訪れる。
ぼりさんが立ち上げたシェアハウスのメンバーに和食を振る舞ってもあまりいい反応がなかった、その悩んでいる瞬間瞬間のどこかの地点で、エゴイズムが限界を迎える出来事が起こったのだろうと思う。
そして、臨界点を超えた瞬間があった。
その時におそらく、「ぼり唐」が誕生したのではないか。
その瞬間というのは、あたかも天啓が降りてきたかのように「そうか!」となった瞬間だったのか、それとも料理とは関係のないことをしていた時にふと湧いてきたのか、あるいは別の形の何かだったのか、それは、ぼりさんに聞いてみないと分からない。
分からないけど、私には肝心なことなのだ。
だから、仮にそういうエピソードが実際あったのなら、もっと聞きたかった、という話なのだ。
何も、喧嘩腰にオラついて、何かを吹っかけようなどということは、私も本心では望んでいない。
望んでいないが、肝心要の核心部分を残念なことに9月8日に聞けなくて、モヤモヤしてしまったという、それだけのことなのだ。なのに、どういう訳か「喧嘩も覚悟だ!」と腹を括らないと、ここまで文章を書き進めることができなかった。その理由は結局のところ、繰り返すようで恐縮だが、ひとえに私自身がエゴイズムにまつわるジレンマを本質的に課題として抱えているからに他ならない。
エゴイズムを乗り越えた時、私の料理も何か良い変化が生まれているのかもしれない。
その姿は、未だ見えない。
見えないけれども、ひょっとしたら私が気づいていないだけで、すぐそばに、手の届くところにあるのかもしれない。
ぼりさんへの果し状
さて、長々と語ること1万字を超えて、
ようやっとこの文章の本題、
ぼりさんへ、果し状を突きつける時が来た。
負け戦、だと思うだろう?
本気だぜ😎
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